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ネガティブ功利主義とは

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ネガティブ功利主義(Negative utilitarianism)とは ネガティブ功利主義(Negative utilitarianism)とは、功利主義の中でも幸福を増加させることより苦しみを最小化することに圧倒的な優先度があると考える立場である。 その優先度は立場によって差異があり、幸福促進は倫理的に一切の重要性を持たないと考える立場もある。 以下、このネガティブ功利主義という倫理的立場について解説するが、まず第一に注意しなければならないのは、ネガティブ功利主義はあくまで功利主義の一派であり、 苦しみを最小化することに優先度を置く立場の全てがネガティブ功利主義に分類されるわけではない 、ということである。 Contents: 1. ネガティブ功利主義という名称の由来 2. ネガティブ功利主義の分類 3. アンチナタリズムとの関係 4. 義務論との関係 5. ネガティブ功利主義の帰結 1. ネガティブ功利主義という名称の由来 ネガティブ功利主義という名称は、カール・ポパー(Karl Popper)が著書『 開かれた社会とその敵 』で行った主張が由来となっている。彼はそこでこう述べている: 倫理的な観点から見て、私は苦しみと幸福の間、あるいは痛みと喜びの間に対称性はないと信じている。功利主義者の最大幸福の原理や、カントの「他者の幸福を促進するべし...」という原理はどちらも、私にとっては(少なくとも彼らの定式では)この点において根本的に間違っているように思える…私は、人間の苦しみというのは、助けを求める直接的な道徳的訴え持つが、上手くやっている人の幸福を増加させることが、同様の訴えを持つとは思わない。 そして、さらにこう続ける: 道徳的観点からすれば、快が痛みに勝ることはない。特に、あるものの快の重大さが、別のものの痛みより上回ることはない。最大多数の最大幸福ではなく、より謙虚なものとして、すべてのものについて、回避可能な苦しみを最小にすることを要求すべきである。そしてさらに、食糧の不可避な不足のときの飢餓のような不可避な苦しみについては、可能な限り平等に配分されるべきである。…この倫理の見方と、私が『科学的発見の論理』で主張した方法論との間にある類似性が存在する。我々の要求をネガティブに定式化すること、すな

オメラスを去れ

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オメラスを去れ これは何か込み入った主張を展開しようという記事ではない。基本的にはただ、ある物語を紹介したいと思う。 アンチナタリスト/エフィリストや、 ネガティブ功利主義者 たちの間で頻繁に持ち出されるある物語がある。アーシュラ・K・ル=グウィンによる1973年発表の短編『 オメラスから歩み去る人々(The Ones Who Walk Away from Omelas) 』である。 哲学者デイヴィッド・ピアースは、アンチナタリズム/エフィリズムコミュニティと、ネガティブ功利主義/ 苦しみに焦点を当てた倫理 の支持者のコミュニティの主要な違いはなんだ、という質問への 回答 で、それぞれの相違の前に共通することとして、こう述べている: ラディカルなアンチナタリスト、エフィリスト、ベネタリアン、ネガティブ功利主義者、そして苦しみに焦点を当てた倫理を支持するものたちはすべて、オメラスを歩み去るものたちだろう。 オメラスとは、一体どんな場所なのだろうか。物語は文庫本10ページほどの短い物語であるが、内容をさらに要約すればこうである: あるところに、オメラスという街がある。オメラスはほとんど完ぺきな理想郷だ。綺麗な景観を持ち、人々は活気にあふれ楽し気に生活している。君主制も奴隷制もなく、軍人も秘密警察もいない。それでいて、平和で繁栄した素晴らしい街なのである。 だが、それでもオメラスは完ぺきな理想郷ではない。オメラスには一つだけ問題があるのだ。オメラスのこの繁栄はある犠牲の上に成り立っている... ある建物の地下室に一つの部屋がある。部屋に窓はなく、扉には鍵がかけられている。わずかな光が、壁板の隙間から射し込んでいるだけだ。湿っぽいその部屋の中に、一人の子どもが座っている。性別の見分けもつかないその子は知的障害児である。それが先天的なものなのか、それともその劣悪な環境と境遇のために知能が退化したのかもわからない。部屋に立てかけてあるモップが怖くてしかたないため、一番遠いところに座って目をつむっているのだが、やはりモップがそこにあるのは知っている。 鍵が開くときは、誰かが食事を運んでくる時くらいだ。あるものは子どもを蹴とばし、別のものはそばへ寄りきもせず、軽蔑の目で子供を見る。彼らは何も言わないが、子供は母親の声を思い出し、時々こう