投稿

12月, 2019の投稿を表示しています

【雑記】「反出生主義者」についての考察

イメージ
【雑記】「反出生主義者」についての考察 Anti-natalismという概念は、「漠然」と生殖に正の価値づけをするnatalismの否定であり、ベネター自身が中国で採用されていた一人っ子政策を例に挙げているように、哲学的立場を指す言葉とは限らない。 日本語ではしばしば、道徳的な立場としてのanti-natalismを指すものとしてアンチナタリズム、その他一般を指すものとして反出生主義という言葉があてられる。 ここでは、twitterを中心とするソーシャルメディアやブログなど、日本のネット上の「反出生主義者」についていくつか考察する。 ■反出生主義者 こちらの記事 でも指摘されているように、ネット上の反出生主義者たちは、そもそも子供を作れる環境になかったり、その機会を得るのが困難な人も多い。 精神病患者、自殺/安楽死志願者、発達障害者などが多く、個人的な不遇を強く認識している人が多いという印象もある。そういった人たちは、当然のこととして、そしてまた、客観的にもある程度正当なものとして、そういった不遇をもたらした親や社会に対する憎悪や嫌悪を抱いている。 しかし、自分の存在をもたらした親だけではなく、同様の行為を行う、あるいは行った人々に批判を向けるには、それが個別の事例における問題ではなく、一般的な問題として成立するものであるという、ある種の「普遍性」が必要になる。そこで、自身の思いに普遍性を提供するように思えるのが、「反出生主義」という概念である。 個人的な不遇と、それをもたらした社会や親などに対する憎悪や嫌悪に打ちひしがれていた人たちが、「反出生主義」という哲学的な議論によってバックアップを得た概念と交差したとき、どういった感情的反応が生じるかは想像に難くない。 そして、彼らが特別に選択をしなければ、自然と子供ができるリスクは非常に低いということを考えると、彼らが子供を作ること考えている、あるいはすでに子供を持っている人たちを批判することの精神的コストは、それが匿名のオンライン上で行われることも考慮すれば、ほとんどゼロであることがわかる。 ■反ホモサピエンス出生主義者 しかし、彼らの多くが唱える反出生主義は奇妙なものでもある。彼らはヒトあるいはホモ・サピエンスという種の生殖にしか関心がない。 生の強制の被害者とな

社会的意味論:群淘汰理論はどれほど有用であってきたか

イメージ
社会的意味論:群淘汰理論はどれほど有用であってきたか 本記事では、群淘汰理論が進化生物学の分野でどのような評価を受けているのかを概観するための資料として、S. A. West、A. S. GriffinおよびA. Gardnderによるcommunication論文 (2007) の内容を要約して紹介する。 この論文の内容は、我々は群淘汰に関して三種類の誤った認識を抱いているというD. S. Wilson (2007) の主張に対する反論であり、Wilsonらの主張を具体的に取り上げて問題を指摘している。 ◆概要 まず、原論文の概要をそのまま引用する: 我々の社会的意味論のレビュー (J. Evol. Biol., 2007, 415–432) では、群淘汰に関連する誤解や混乱の原因について議論した。Wilson (2007, this issue) は、我々は群淘汰に関する三つの誤りを犯していると主張している。ここでは、この主張に反論するために、我々のレビューから関連する点をより詳細に説明することを目的としている。過去45年間の研究は、血縁淘汰のアプローチおよび群淘汰のアプローチの相対的利用の明確な証拠を提供している。血縁淘汰の方法論はより扱いやすく、群淘汰アプローチの有用性を説明するためにWilsonが選択した例を含む特定の生物学的事例に対して、より簡単に適用できるモデル構築を可能する。対照的に、群淘汰アプローチは有用性が低いだけでなく、しばしば、徒労につながる混乱を助長することにより、ネガティブな帰結をもたらすように思われる。より一般的には、血縁淘汰理論は、あらゆる分類群に適用できる統一された概念的要約の構築を可能にする一方で、群淘汰にはいかなる形式理論も存在していない。 ◆誤認1:古い群淘汰と新しい群淘汰 Wilsonによれば、一つ目の誤認は「古い」群淘汰理論と「新しい」群淘汰理論の間には、歴史的に概念的にもつながりがない、というものだ。ここで彼らが古い群淘汰論といっているのは、いわゆる「自然淘汰は群単位で作用し、生物には種の保存のために行動する基本的な本能が備わっている」といったいわゆるナイーブな群淘汰論のことである。 しかし、Westらは、それらの間につながりがあることには元々同意しているが、重要なことは、新たな群