植物の意識という神話への反証

 植物の意識という神話への反証

※本記事の内容は,より詳細な補足や関連する研究の結果と共に,以下のリンク先のpdfファイルにも収録してある。


■はじめに

未だに、植物にも意識があると信じる人、あるいはそう信じるふりをすることが、ビーガンにならないことを正当化する理由になると信じる人が多くいる。 『ビーガンFAQ:#プランツゾウ』において、そのどちらの信念も誤りであるということを議論しているが、ここでは前者の信念、すなわち植物にも意識があるという考えの問題点をまとめた論文『Debunking a myth: plant consciousness(植物の意識という神話への反証)』の内容を要約し、紹介する。

この論文は解剖学者Jon Mallatを筆頭著者とし、膜の物理を専門にするMichael Blatt、病態生理学者Andreas Draguhn、植物の環境への適応を研究する植物生理学者David Robinsonそして、もう1人の植物生理学者Lincoln Taizによって書かれた、「植物も意識を持つ」という主張への反論を示すものである。

Mallatは、神経科学者で意識の科学を専門とするTodd E. Feinbergと共同で、意識の基底とその起源についての研究を行っており、Taizをはじめとする残りの著者らは、FeinbergとMallatの研究に基づき、『Plants neither possess nor require consciousness(植物は意識を持つことも必要とすることもない)』をはじめ、植物意識の存在を否定する一連の研究を発表している(一部『ビーガンFAQ:#プランツゾウ』内でも引用している)。

この論文は、こうした研究の1つのまとめとして、植物意識を支持する側が持ち出す12の主張をリストアップし、その1つ1つに対し、それがなぜ間違いであるかを示すものとなっている。 論文で扱われるのは、以下の12の主張である:

  1. 生きた細胞の1つ1つに意識がある
  2. 植物の意識は、環境の変化を感知して適応的に対応して目標指向行動のために情報を統合し、その過程で意思決定を行っていることに現れている
  3. 膜電位と電気信号は、植物と動物の間で、意識を生み出す形で共通している
  4. 活動電位などのコミュニケーションのための電気信号は、ニューロンのように師要素に沿って伝播する
  5. 植物は、ニューロンを持つ動物と同様に、電気信号を使って意識に必要な情報統合を行う
  6. 植物は根に脳(「司令部」)を持っている
  7. 植物はプロアクティブで予測的な振る舞いを見せる
  8. 植物は古典的な連合学習を示すが、これは意識の存在を示している
  9. 植物は互いに目的を持ってコミュニケーションを取っているため、意識的な自己認識を有している
  10. 詳細な仮説、予測、モデルは、植物の意識の確固たる証拠の代わりとなる
  11. 植物は情感(感情)意識を有する
  12. 植物は内部表象に基づく、イメージベース意識を有する

元論文の構成としては、導入に続く最初の節で議論の対象とする意識の定義が与えられ、その後、これら12の主張1つ1つの問題が示される形になっている。

本記事では概ねその構成に従うが、内容への補足まで合わせると、分量の関係上そのすべてを1つの記事に含めることは望ましくないため、議論が長くなるものに関しては、それぞれ個別のページを用意する。 引用文中の参考文献については、元論文のReferencesをあたってほしい。


■意識の定義

意識は難解な概念であるが、著者らが議論の対象とするのは、現象的意識(phenomenal consciousness)あるいは原意識(primary consciousness)と呼ばれるものである。 実際、植物の意識を支持するものたちも、「意識」という言葉を用いて議論の対象としているのはこれであると著者らは認識している。 原意識の定義に関する部分を引用しよう:

原意識とは、たとえそれがどれほどかすかで儚いものであっても、何かしらの経験や感情を持つことを意味する(Revonsuo 2006: p.37)。 このような基本的なタイプの意識が最も端的に表現されたのは、Thomas Nagel(1974)が「コウモリであるとはどのようなことか」と問うた際である。 それは主観的、すなわち一人称的な視点を持つことを意味し、センティエンス(ラテン語で「feeling」を意味するsententiaに由来する)と呼ばれることもある。 経験を顧みる能力、自分が意識を持っているという自己認識、鏡内の自己認識、エピソード記憶(特定の時と場所で起こった過去の個人的な経験を思い出すこと)、夢を見ること、そして高次の認知的思考など、これらすべてはより高次の意識であり、この原意識の形態には含まれない(Feinberg and Mallatt 2018: p. 131)。 すべての意識的生物は原意識を持っているが、それをベースにより高次の意識を進化させたのはその一部にすぎない。

また、原意識による生の経験に関する具体的な側面として次の2つが挙げられる:

  • 知覚される世界の心的表象や表現を経験すること。
  • 情緒的感情を経験すること。情緒とは本来、情緒的な意識を意味し、その最も単純な形においては、良い(good)/悪い(bad)の感情のことである。

この2つ目は、道徳的配慮の必要性に関する最も基本的な基準を与える事実である。 すなわち、知覚を持たないものは価値感覚、したがって道徳的に意味のある形での利害を持たないため、それらの利害を侵害することは原理的に不可能である。

こうした意識は、脳や神経系の存在に依拠するという証拠がすでに豊富に存在するにもかかわらず、植物の意識を支持するものたちは、植物はそうした構造に依拠せず、原意識の定義に収まる「何か」を持つと主張する。 特に、植物の意識の支持者は、原意識を「環境を認識(aware)し、目的を持った(purposeful)生物的振る舞いのために感覚情報を統合する能力として理解される」ものであると主張するが、著者らはこの特徴づけを妥当なものだと認めつつ、それは次の2つの語を正しい意味で理解した場合に限るとくぎを刺す。

1つ目の語は、「気づき(aware)」である。 これは、文字通り感覚的経験のことであり、単なる感覚受容ではない。 2つ目は「目的を持つ(purposeful)」であり、これは自然淘汰によってプログラムされた「適応的(adaptive)」なものではなく、「volitional(意志的)」な振る舞いを表すものである必要がある。

以降、ここで述べたことも踏まえて、具体的に主張の内容を検討していく。


■植物の意識を支持する主張

●1. 生きた細胞の1つ1つに意識がある

これに対する反論はコチラ


●2. 植物の意識は、環境の変化を感知して適応的に対応して目標指向行動のために情報を統合し、その過程で意思決定を行っていることに現れている

これに対する返答も単純で、目標指向行動(goal-directed behavior)は非意識的な生理過程にさえも見られる基本的な生物的振る舞いであり、主張1で説明したように、すべての生物が意識を持つわけではないから、目標指向行動は意識の存在を示す根拠にはならない。


●3. 膜電位と電気信号は、植物と動物の間で、意識を生み出す形で共通している

これに対する反論はコチラ


●4. 活動電位などのコミュニケーションのための電気信号は、ニューロンのように師要素に沿って伝播する

これに対する反論はコチラ


●5. 植物は、ニューロンを持つ動物と同様に、電気信号を使って意識に必要な情報統合を行う

これに対する反論はコチラ


●6. 植物は根に脳(「司令部」)を持っている

これに対する反論はコチラ


●7. 植物はプロアクティブで予測的な振る舞いを見せる

何らかの刺激をきっかけとして行うリアクティブな行動に対し、先を見据えた行動をプロアクティブな行動というが、植物のプロアクティブな行動として挙げられる例 、目標に向かうか危害から遠ざかるように根、芽、つるを成長させることなどは、実際には刺激に応じたリアクティブなものであり、植物がプロアクティブな振る舞いを見せるという証拠は存在していない。


●8. 植物は古典的な連合学習を示すが、これは意識の存在を示している。

主張1で、学習には非連合学習と連合学習があることを説明したが、連合学習はさらに古典的学習とオペラント学習に大別される。

古典的学習は、Pavlovの犬に代表されるような、新たな刺激をすでに確立した振る舞いに関連付けて学習するものであるのに対し、オペラント条件付けは、ネズミがレバーを押すとエサがもらえることを学ぶように、自発的な行動に伴う報酬や罰によって、行動変容を起こすことを言う。

植物が古典的学習を行っていることを示す実験結果があると主張するものが存在するが、それらの実験はほとんどが1960年代に行われたもので、どれ一つとして再現されていない。 近年の実験もいくつあるが、追実験で再現に失敗していたり、実験の不備が指摘されていたりしており、植物の古典的学習の存在は未だ証明されていない。

しかし、それよりも決定的なこととして強調されるのは、古典的学習は意識を必要としないため、仮に植物に古典的学習が観察されようが、意識の存在の裏付けにはならないということである。


●9. 植物は互いに目的を持ってコミュニケーションを取っているため、意識的な自己認識を有している

これは、ポピュラーメディアがこぞって擬人化して表現する植物間の情報交換に関するものである。 すなわち、化学物質や他のシグナルの交換は、認知に似た適応行動であり、植物間のシグナル伝達は、植物が自己と異物の区別、すなわち自己認識をしている証拠であるという主張である。 また、その結果として、植物の集団的振る舞いは、社会的な認知、知性、思考を示す協力的行動であるとの解釈もなされる。 しかし、こうした主張は、次のような指摘をもって退けられる。

これらの観察のどれ一つとして、意識も認知も集団的計画も必要としない。 生物間の信号交換は、細菌のバイオフィルムにおける集団行動のレベルを始め、生物において広範に見られる現象である。 こうしたコミュニケーションが生じるのは、すべての生物が、他の生物が発する分子を含め、関連性のあるあらゆる有益な外部刺激を(受容体を介して)検知するよう進化しているためである。 また、すべての生物は境界によって定義されるため、彼らには自己と異物の間の基本的な区別が存在する。 この区別は、例えば免疫システムのように、複雑で適応的なものにもなりうる(Abbas et al.2019)。 だが、それは意識を反映したり構成したりするものではない。

こうした考察を考慮すると、植物のコミュニケーションが意識の存在を示していると主張できるのは、すべての細菌を含め、あらゆる生物が意識を持つ場合に限られるが、これは、上の主張1で指摘したように、かなり問題のある主張である。


●10. 詳細な仮説、予測、モデルは、植物の意識の確固たる証拠の代わりとなる

要するに、確固たる証拠がなくとも、それらしい観察やモデルを寄せ集めることで、植物の意識の存在を支持する正当な根拠となる、という主張であるが、彼らが行っているのは根拠のない推測と飛躍の積み重ねであって、信頼性のある理論とはなっていない。 これに関して著者らは

確固たる証拠のない度重なる推論の飛躍は、議論の連鎖に致命的な誤りをもたらす運命にあるだけでなく、研究の努力を過度に複雑にしてしまう。

と批判する。


●11. 植物は情感(感情)意識を有する/12. 植物は内部表象に基づく、イメージベース意識を有する

これに対する反論はコチラ


■まとめ

論文では、以下のように改めて議論の内容がまとめられる

  1. 植物がプロアクティブな振る舞いを示すことはない。
  2. 古典的学習は意識の存在を示すものではないため、植物による古典的学習の報告は無関係である。
  3. 植物の電気信号と動物の神経系の間にある著しい違いは、それらの機能的等価性を否定している。 動物の場合と異なり、植物の活動電位には、Ca2+シグナルや浸透圧制御を含む多くの生理的役割がある。 また、植物の変動電位には、損傷の痛みとしての意識的認識を除外する特性がある。
  4. 植物における、意識の必要要件である情報統合のための相互的(反復的)な電気信号の証拠は存在しない。
  5. 植物の意識の支持者の多くは、すべての細胞が意識を持つとも述べるが、これは反証に苦しむ推測の域を出ない理論である。

そして論文は、「植物の意識に関する怪しげな考えは、当科学分野に害を及ぼしかねない」という文言を含んだ警告で締めくくられる。

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