時間の矢の起源:典型性に基づく説明

時間の矢の起源:典型性に基づく説明

Kei Singleton 
First published: 17. Apr. 2019;
Last updated: 17. Apr. 2019



はじめに


生物進化の法則、人工生命の創造に伴う明らかなリスクへの効果的な対処、意識や知覚をもたらす脳の神経構造、老化のメカニズムなど、苦しみの原因にかかわるこれらの問題をより深く理解し、そして対処を可能にするには、熱力学や統計力学をはじめとした物理学の知識と手法が必要になる。一方で、熱力学や統計力学で用いられる概念や方法の一部は、非常につかみどころのないものでもあり、それゆえに多くの誤解が広まってしまっている。ここでは、それらの分野の概念を専門的な予備知識を必要としない形で紹介することを一つの目的とし、それ自体が苦しみの大きな原因である時間の不可逆性について議論する。

1  ミクロな世界とマクロな世界

1.1  熱力学第二法則と時間反転非対称

形あるものは時の流れと共に姿を変え、やがて朽ち果てる。不可避な老いと死は私たち動物の多くにとってそれ自体が最も大きな苦痛であるだけでなく、将来経験する老いや死に対する不安や恐怖など、生における他の様々な苦しみを生む原因ともなる。しかしこの時間変化の一方向性は、生物の変化にのみ見られるものではない。私たちの目に見える系(考察の対象とするもの)の多くは、その変化の方向に明らかな非対称性を示す。例えば部屋でコーヒーにミルクを入れて飲んでる場面を想像してみよう(もちろんここで入れるミルクは豆乳やアーモンドミルクなどのビーガンミルクだ)。コーヒーに垂らしたミルクは自ずとコーヒーと一様に混ざり合うが、何か特殊な操作でも加えない限り、一度混ざり合ったミルクがコーヒーと分離することはない(溶けの悪い製品については考えていない)。また、それが淹れたての熱いコーヒーであっても(あるいは十分冷えたアイスコーヒーであっても)、放置すればやがて部屋の空気と同じ熱さになり、それ以上変化を示さなくなる。

これらのマクロな(目に見えるスケールの)系の状態を扱うのが、熱力学と呼ばれる分野である。ここではまず、その熱力学からいくつかの有用な概念を導入する。マクロな系が、(外界とのやりとりがないまま)しばらく放置して至る、目に見えた変化を示さなくなる状態を平衡状態という。そして、この平衡状態において、熱力学的エントロピーと呼ばれる量$S_{TD}$を定義することができる(TDは、熱力学を意味する英単語 thermodynamics との対応)。この熱力学的エントロピーは、系が可能な変化の仕方を理解するのに重要な役割を果たす。

これらの概念を用いた具体例としてコーヒーの熱さが変化する現象を記述してみよう。話を単純にするため、はじめコーヒー(ホットなりアイスなり)を用意した瞬間、部屋の空気とコーヒーはそれぞれ独立に平衡状態にあったとみなせるとする。このとき、パチンと指を鳴らして時間を止めて、そのときの時刻に$t_0$とラベルする。そしてその瞬間の部屋のエントロピーを計測すると、コーヒーと、部屋からコーヒーを除いた部分を合わせた部屋全体のエントロピー$S_{TD}^{tot}(t_0)$は、コーヒーのエントロピー$S_{TD}^{coffee}(t_0)$と部屋のエントロピー$S_{TD}^{room}(t_0)$の和として
\begin{align}
S_{TD}^{tot}(t_0)=S_{TD}^{coffee}(t_0)+S_{TD}^{room}(t_0)
\end{align}
と表せる。ここでまた指をパチンと鳴らして時間を進めると、コーヒーと部屋の空気は相互作用を始めて、やがてお互いに同じ温度に至り変化をやめる。このときの時間を$t$とラベルし、最初と同じように全体のエントロピー$S_{TD}^{tot}(t)$を計測すると、最初に測ったエントロピー$S_{TD}^{tot}(t_0)$と比較した場合に
\begin{align}
S_{TD}^{tot}(t_0)\leq S_{TD}^{tot}(t)
\end{align}
の関係が成り立っていることがわかる。等式が成り立つのは最初からコーヒーも部屋の残りの部分も温度が同じだった場合だけだ。つまり、始めの状態より終わりの状態の方が部屋全体のエントロピーの値が大きくなっている(部屋は議論が要求する程度には十分しっかり断熱されているとする)。

外界とやり取りのない系のエントロピーは減少することなく、系全体が平衡状態になるところで最大値を取りそれ以上変化しなくなる。これが、熱力学第二法則が示すことである(ちなみに第一法則はマクロな観点から見たエネルギー保存則)。

1.2  運動方程式と時間反転対称性

このしかしこれらの系を、それらを構成する分子のレベルで眺めると、別の世界が現れてくる。簡単のために、分子は形や大きさを持たない点粒子で表されるとしよう。この粒子の運動は、ニュートンの運動方程式によって記述することができるが、ニュートンの運動方程式は時間を逆戻ししても成り立つ。すなわち時間反転対称な性質を持っている1。コーヒーにミルクを混ぜるところをビデオに撮ってそれを誰かに逆再生して見せた場合、それが逆再生であることはすぐに気づかれる。しかし、ニュートンの運動方程式に従う粒子の運動を撮影し、それを逆再生したものと同時に再生し比較して見せても、動画だけを見てどちらが正しい方向に再生したものかを言い当てることはできない。

つまり、私たちの日常的なスケール、すなわちマクロなスケールで見た系の振る舞いと、それを構成する個々の成分のスケール、すなわちミクロなスケールで見た振る舞いの間には、時間反転対称性についての決定的な違いがある。時間反転対称な法則に従うミクロな粒子によって構成されるマクロな系が、なぜ時間反転非対称な振る舞いを見せるのかという問題は、物理学における未解決の問題の一つである。しかし、この問題は二つの部分に分けることができ、このミクロな時間反転対称性とマクロな不可逆性を矛盾なく説明すること自体は、少なくとも概念的には困難なことではないと議論する研究者もいる。彼らの間で有力な説明の一つとして支持されているのが、「典型性(typicality)」という概念を用いたものである。

2  統計力学

典型性の説明を行うために、議論が展開される舞台を含め、今度は統計力学で用いる概念をいくつか導入する。統計力学はミクロな物理とマクロな物理の橋渡しをする分野であり、個々の粒子が従う法則の観点、すなわち力学的な観点から熱力学的振る舞いを説明することを目的としている。

2.1  相空間

まず、議論が展開される舞台を整備しよう。一つの粒子に着目したとき、その粒子の3次元空間内の位置は、横方向($x$)、奥行き方向($y$)、縦方向($z$)と三つの座標$(x,y,z)$を用いて記述することができる。適当なところに原点$(0,0,0)$を選び、適当な目盛りを刻めば、例えば原点から正の向きで横方向に$10$目盛り分離れたところにある粒子の位置は$(10,0,0)$、そこから奥行き方向に$5$、縦方向に$3$移動した粒子の位置は$(10,5,3)$などと表すことができる。しかし、粒子の運動を決定するためには、ある時刻の位置だけでなく、その時刻での速度も知る必要がある。つまり、3次元空間内の運動であれば、それに応じて速度も3つの成分を持つから、全部で6つの成分を知る必要があるということになる。反対に言えば、これら6つの成分がわかれば、その粒子がその後どのような運動をするかを予測することができ、力学的状態が定まったと言える。

位置の目盛りに対して適当な時間の単位も決めれば、速さの単位も決めることができる。例えば横方向に真っすぐ$4$の速さで動いているのなら、速度の成分$(v_z,v_y,v_z)$は$(4,0,0)$と表せる。ニュートン力学では、一般の場合3次元空間中にある粒子が、3つの速度成分を持っているというイメージで議論が展開される。しかし、力学の定式化の方法の一つではなく、抽象性が増すことと引き換えに多くの利点を持った別の形式を用いることもでき、統計力学では力学的状態の記述にハミルトン形式と呼ばれる形式が一般に用いられる。

ハミルトン形式の力学、あるいはハミルトン力学が展開されるのは3次元の物理的空間ではなく、空間3成分と速度3成分を一つの組にまとめた$(x,y,z,v_x,v_y,v_z)$を座標変数とする相空間と呼ばれる抽象的な6次元の数学的空間である2。こうすることで、粒子の力学的状態はその6次元空間内の一点で表すことができる。

では、二つの粒子を同時に考える場合はどうだろうか?一つの方法は単純に、6次元の成分の組をそれぞれの粒子に与えることである。粒子に1と2とラベルすれば、それらの6次元の相空間内の座標はそれぞれ$(x_1,y_1,z_1,v_{1x},v_{1y},v_{1z})$と$(x_2,y_2,z_2,v_{2x},v_{2y},v_{2z})$である。しかし、全粒子を合わせて一つの系として扱うには不便であるから、6次元の成分の組を二つまとめて$(x_1,y_1,z_1,x_2,y_2,z_2,v_{1x},v_{1y},v_{1z},v_{2x},v_{2y},v_{2z})$と一つの組にしてしまうこともできる。この12次元の空間を$\Gamma$-空間、最初の6次元の相空間を$\mu$-空間と呼んで区別する。この考えは粒子の数が増えた場合も同じように適用できる。粒子一つにつき6次元あるから、粒子の数が$N$個であったなら、$\Gamma$-空間は$6N$次元の空間になる。室内の空気中には$10^{23}$個(1のあとに0が23個並ぶ数)程度のオーダーの分子が含まれるが、$10^{23}$個の粒子で構成される系の状態は、$6\times10^{23}$次元の空間の一点で指定できるということになる。

2.2  ミクロ状態とマクロ状態

$6N$次元の$\Gamma$-空間の点を指定することが、系のミクロな状態を指定することに対応することを説明したが、これはカップの中のコーヒーを例にすれば、コーヒーを構成するすべての分子の位置と速度を指定するのに対応する。このように分子のすべての位置と速度を指定すると、私たちの目で見えるスケールでのコーヒーの状態、つまりコーヒーのマクロ状態も決まってしまうことがわかるだろう。つまり、系のミクロ状態を決定すると、対応するマクロ状態がただ一つ決定される。しかし、例えばコーヒーを構成する水分子を二つピックアップして、それらの状態(位置と速度)を取り換えても、コーヒーの状態に目に見えた変化は起きないことが想像できるだろう。他にも、カップの上方にある分子を一つ底の方に移動したりしても目に見えたコーヒーの状態は変わらない。つまり、ミクロ状態をわずかに変更させても、大抵の場合はマクロ状態に変化は起きず、複数の異なるミクロ状態が同一のマクロ状態に対応するのである(念のために注意しておくと、マクロ状態の区別は、もちろん目で見て変化があるかどうかではなく、ちゃんと物理量に基づいて行われる)。

改めて、ミクロな構成要素を点粒子とみなす描像に戻ると、ある粒子の位置や速度をわずかに変化させることは、$\Gamma$-空間内の点の位置をわずかにずらすことに対応する。つまり、点ではなく、$\Gamma$-空間の有限な大きさを持つ領域が、一つの同じマクロ状態に対応するということになる。一つのミクロ状態に対応して、ただ一つのマクロ状態が存在するが、一つのマクロ状態に対応して複数のミクロ状態が対応するという事実が、これらのスケールの間で時間発展の性質に違いがあることを理解するカギとなる。

3.  ボルツマンのアプローチ

3.1  ボルツマンのエントロピー

統計力学確立の中心的な役割を果たしたボルツマンは、前の節で述べたミクロ状態とマクロ状態の対応関係の性質から、時間の矢についてのもっともらしい説明を与えた。彼は、対応するマクロ状態毎に$\Gamma$-空間を分割したとき、各領域の大きさに応じて大きな値を取る、ボルツマンのエントロピー$S_B$という量を導入した。$\Gamma$-空間をこのように分割したとき、$\Gamma$-空間内において平衡状態に対応する領域が最も大きくなり、そのときのボルツマンのエントロピー$S_B$は、(系を構成する粒子が大きければ無視できる項の違いを無視して)熱力学的エントロピー$S_{TD}$と一致する。もう一つ重要なことは、$\Gamma$-空間における平衡状態に対応する部分領域は、他のマクロ状態に対応する領域と比べて、圧倒的に大きいということである。よって、系が非平衡状態からスタートしても、$\Gamma$-空間をはい回っているうちに自然と平衡状態に対応する領域に侵入し、そのままその中に留まるということが予測できる。これにより、エントロピーの増大する方向に変化するという熱力学的な振る舞いのミクロな観点からの説明が与えられる。

この説明は、$\mu$-空間を舞台とした説明と合わせることで、よりよく理解できるかもしれない。$\mu$-空間を小さなセルに分割したとき、それぞれのセルにどれだけの粒子が含まれているかということを粒子の分布という。この系のマクロ状態は、特定の粒子がどのセルに入っているかということとは無関係に、粒子の分布のみから決定される。

単純な例で具体的に考えてみよう。速度のことは忘れて、二次元の箱に同じ種類の粒子を複数個閉じ込めた系を考える。この四角い領域をどれも同じ大きさの細かい正方形のセルに分割して、各セルに番号を振る。そして、何番目のセルに何個の粒子が入っているか、というのがこの系の(空間)分布となる。例えば、図(a)のように、一番左下の角のセルにすべての粒子が入っているようにする分配の仕方は、ただ一通りしかない。しかし、図(b)のように一つ以外すべての粒子が角のセルに入っているが、一つだけは別の特定のセルに入っているという分布の仕方は、粒子それぞれを一度だけ入れ替えた数だけあるから、粒子数と同じ数の仕方があることがわかる。そして、図(c)のようにこれをもっとランダムに撒いたときの分布を実現する分配の仕方の数は、文字通り桁外れに大きくなる。
図:説明のための簡易的なモデルとして、$N=15$の系を考えたときの例。(a)のようにすべての粒子が一つの特定の空間セルに集まる分配の仕方は1通りしかないが、(b)の場合、そこから外れた粒子の選び方は$N=15$個のうちどれを選んでも分布は変わらないから、同じ分布を実現する方法は$15$通りあることになる。(c)になれば、その入れ替えの仕方はもっともっと大きくなる(163,459,291,000通りにもなる)。

$\mu$-空間で同じ分布を実現するの可能な異なる分配の仕方の数は、$\Gamma$-空間で見たとき、その分布に対応するマクロ状態が占める領域の大きさと関係づけられる。図では$N=15$という統計力学の対象とするには不十分な小さな系の例を示しているが、実際の系は$N=10^{20}$以上にもなる膨大な粒子を含んでおり、例え粒子をすべて一つのセルに集めてスタートさせても、それらが領域内で乱雑な運動を始めたら、途端に粒子は散り散りに広まっていく。それらの粒子が乱雑な運動によってかき混ぜられるのなら、ある程度の時間がたった後、適当な時刻で系の時間をストップして分布を確認したとき、最も見出される確率が高いのは最も分配する方法が最も多い分布であり、一様に撒かれた分布に近いものになることがわかるだろう。改めて、この$\mu$-空間で最も分配する方法が多い分布こそ、$\Gamma$-空間内で最も大きな対応するマクロ状態の領域を持つ平衡状態である。

一つの空間セルに用意した粒子というのをコーヒーに入れられたミルクを構成する分子とみなし、アクセス可能な領域全体をカップとすれば、始めは一か所に集まっていたミルクも、(重力を無視しても)コーヒーを構成する分子の乱雑な運動によってかき回され、直ちにカップ全体に均等に散らばっていくことに対応付けられる。そして、自ずと最も実現する分布の仕方が多い状態に、非常に高い確率で推移していき、やがて平衡状態に達する。一度平衡状態に達した系が有限な時間内に平衡状態から脱したり、あるいはさらに、改めて一つのセルに集められた始めの状態に自ずと戻るということは、可能性としてはゼロではないにしても、実質的にはありえないと言ってよい。しかし、このとき何らかの時間反転非対称な力が働いているわけではないし、力学法則の時間反転対称性と矛盾することもない。この圧倒的な実現可能性の高さこそ、ボルツマンが行った熱力学的振る舞いのメカニズムに関する説明の本質である。

3.2  より現代的な理解:典型性による説明

ボルツマンのこの説明には一部正確ではないと考えられる仮定も含まれていた。それは、十分な時間がたてば、系は$\Gamma$-空間内をくまなく這いまわるというものである。しかし、エルゴード仮説と呼ばれるこの仮定を一般的な議論に適用することの正当性には当初から議論があり、現在では統計力学の基礎付けには適切でないという見方が強くなっている3。だが同時に、その点はボルツマンの説明にとって本質的な障害にはならないと考えられる。

平衡状態と、粒子が領域の半分に偏って分布しているとった極端な非平衡状態に対応する$\Gamma$-空間内の領域の大きさの比は、$10^{10^{20}}$程度にもなる。そのため、例え$\Gamma$-空間内をくまなく動かなくとも、よほど例外的な軌道を描かない限り、嫌でも平衡状態に侵入していくことが予測される。この、必ずではないが普通ならまずそうなるという性質、つまり典型性こそ、熱力学的な振る舞いが生まれる理由だという仮説が、典型性による説明である

(Frigg 2009, 2011) で議論されているように、この典型性による説明はもう少し細かく分類することができるし、それぞれに批判もある。しかし、典型性による説明を示したジョエル・レボウィッツ (1993) を始め、この典型性の説明によって概念的な理解は十分得られ得ると考えている研究者も多い。例えばシェルドン・ゴールドスタインは、不可逆性の起源の問題は、解決の困難さに応じて「easy part(簡単な部分)」と「hard part(難しい部分)」の二つの部分に分けられ、熱力学的な振る舞い自体はeasy partの方に分類されると主張している (Goldstein 2001)。

一方、ゴールドスタインによってもhard partに分類される本当に解答が困難な問題だと考えられているのが、「ではなぜ、宇宙の初期状態は、$\Gamma$-空間の中の非常に特殊な点に対応する低エントロピー状態にあったのか」という問いである。この問いは確かに困難な問いであり、それゆえに科学的議題としては非常にエキサイティングなものである。だが一方で、この宇宙スケールの問題への解答が与えられなくとも、現在の宇宙における不可逆性のもっともな説明はボルツマンのアプローチによって与えられるし、いずれにしても低エントロピー初期状態の起源は私たちの苦しみの問題を考えるのあたってはより関連性の低いものであるため、これ以上は掘り下げない。

4.  おわりに

ここで扱った時間の矢の問題を含めたミクロスケールとマクロスケールの間の関係性こそ統計力学の中心テーマであり、生物という複雑な系を物理的に理解するのにも必須となるツールである。実験事実との一致により、十分な裏付けを積み重ねてきた統計力学であるが、一方で、その基礎部分の概念的理解には、未だに物理者や哲学者の間で多くの論争がある。また、統計力学の成果の大半は、平衡状態か、そこからわずかに外れた状態にある系を対象としたものであり、これを生物を含めた一般の非平衡状態に拡張する試みは、困難ではあるが、それゆえに興味深くホットなテーマとなっている。

時間の矢の起源を理解したところで、このレベルまで遡って苦しみの問題に何らかの対処ができるわけではないが、一方で、これらの問題を通して考察することで、その概念的理解を深め、少なくともいくつかの誤解を取り除き、論争がある中でももっともらしい基礎付けのための枠組みを選びだし、そして非平衡系への拡張のより確かな指針とすることができる。はじめに触れた生物進化の法則や、意識のメカニズムや老化の原因など、苦しみの問題を根源的に理解し、そして対処するには、物理的な観点が有効、あるいは場合によっては必須となる。これらの問題はまた別の個別に扱うが、単なる知的好奇心だけでなく、世界に存在する問題の改善と根治をモチベーションとして、これらの問題に関連する分野の研究に関与する人が一人でも多く増えたらと願っている。

脚注

1. ここでは非相対論的な古典力学の範囲で議論する。ここで紹介する説明の支持者は量子的な効果がマクロな時間反転非対称性の起源に本質的な役割を果たすことはないと考えている。
2. 一般には、相空間変数の半分として、直交座標系における空間座標に選んだとき、残りの相空間変数は速度ではなく、位置に対して正準共役と呼ばれる関係にある運動量が選択される。しかし、必ずしも正準共役な変数を選ばなくとも、いくつかの条件を満たすものであれば相空間の座標変数として選択できる。
3. エルゴード仮説の問題については、例えば (Earman and Rédei 1996) を参照。

参考文献


  • Earman, J., and Rédei, M. (1996). Why ergodic theory does not explain the success of equilibrium statistical mechanics. The British Journal for the Philosophy of Science, 47(1), 63-78. 
  • Frigg, R. (2009). Typicality and the approach to equilibrium in Boltzmannian statistical mechanics. Philosophy of Science, 76(5), 997-1008. 
  • Frigg, R. (2011). Why typicality does not explain the approach to equilibrium. In Probabilities, causes and propensities in physics. Springer, Dordrecht,  77-93.
  • Goldstein, S. (2001). Boltzmann’s approach to statistical mechanics. Chance in physics. Springer, Berlin, Heidelberg, 39-54.
  • Lebowitz, J. L. (1993). Boltzmann's entropy and time's arrow. Physics today, 46, 32-32.



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