「生まれてよかった」は生殖を正当化しない ―シフリンの原理と承認による反論― この記事では、Seana Shiffrinの論文『Wrongful Life, Procreative Responsibility, and the Significance of Harm』[1]および、Asheel Singhによる論文『Furthering the Case for Anti-natalism:Seana Shiffrin and the Limits of Permissible Harm』[2]の要約を中心とし、アンチナタリズムの議論の一つとなるShiffrinの非対称性について考察する。 注意事項: 元文献からの引用はインデントを変えず、文字の色を[1]については ポンパドゥール 、[2]については 青色 にして区別する。文字色が区別されない形式で閲覧している場合や、その他なんらかの理由で色の識別が困難な方は注意してほしい Shiffrinが、現在シフリンの非対称性と呼ばれている生殖の道徳的問題を指摘する原理を提唱したのは、いわゆる「Wrongful life訴訟」に関連して書かれた論文『Wrongful Life, Procreative Responsibility, and the Significance of Harm』(1999)内であった。 Wrongful life訴訟とは、主に深刻な障害を持って生まれたものが、例えば親がそれを回避する手立て(中絶)をしなかったとか、あるいは医師がそのための十分な情報を親に提供しなかったなどとして起こす訴訟のことである。 しかしShiffrinは論文で、深刻な障害を持って生まれた場合や、親が無責任に子供を生み出した場合に限らず、生殖という行為そのものが道徳的に問題のある行為だと論じている。 Shiffrinの議論 まずShiffrinは、生まれた人の負荷についての責任を評価するのは、危機にある人を救おうとする人に、救出の際にもたらした害の責任を負わせるようなものであるというJoel Feinbergによる主張の問題を指摘する。彼の主張は、救助されることの利益を考えれば、その救助に伴う害の責任を負う必要はないのと同じように、生まれたことによる利益がその害を十分上回る...
元論文: Still Better Never to Have Been: A Reply to (More of) My Critics David Benatar Received: 2 July 2012 / Accepted: 8 July 2012 / Published online: 5 October 2012 はじめに これは、 デイヴィッド・ベネター が自身の著書『Better Never to Have Been(生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪)』(以下,BNtHB)に向けられた批判に対する反論を記した論文の要約と抜粋である。 和訳本には目を通していないため、異なる用語や表現を用いている個所が多々あると思うが、それについては自分で補ってほしい。 1. Introduction この導入では、当然多くの反対が来ることは予想していたが、中にはまったく内容を読んでいないことを堂々と認めたうえでの反論や、どこが問題なのかを示さない批判もあったことを述べている。 2. Why It Is Better Never to Have Been 2節目では、彼の議論の基盤であり、主に批判の対象となっている基本的な非対称性の議論と、それに続く4つの非対称性: (i)生殖の義務の非対称性 (ii)将来の利益の非対称性 (iii)回顧的な利益の非対称性 (iv)遠隔地の苦しみと幸福の不在の非対称性 そして人生のクオリティについての議論を改めて要約して示している。 これらについては『Better Never to Have Been』の2章および3章、あるいは当ブログ記事『 ベネタリアン的非対称性の評価の仕方 』を参照してもらいたい。 3. Impersonally Better or Better for a Person? ここでは、ベネターが「非存在者の苦痛の不在は良い」というとき、具体的にどういった見方からの判断なのかを説明している。 すなわち、非人格的に良いのか、それとも誰かにとって良いと言っているのか、ということである。 彼は、彼への批判の一部は、ここをはっきり理解してないとし、次のように述べている: 私がすでに明確であってほしか...