アンチナタリズムFAQ - よくある質問と返答
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アンチナタリズムFAQ - よくある質問と返答
Abstract
※大幅な書き換えと形式の整理が必要だという認識はあるが、先送りになっている。
―Contents―
▼1. アンチナタリズムとはどんな思想であり、どんな思想でないのか
Q1.2 なぜ生殖は悪のか?
A1.2.1 生まれることで、他者に苦痛をもたらすから
A1.2.2 生まれてくるもの自身に苦しみを押し付けることであるから
A1.2.3 子供を作ることは他者を利用することだから
▼2. アンチナタリズムとはなにでないのか
Q2.2 チャイルドフリーとは違うの?
Q2.3 生に価値がないならなぜ自殺しないの?
Q2.4 殺しも肯定するの?
Q2.5 自分の人生が辛いだけでは?
Q2.6 ニヒリズムなの?
▼3. アンチナタリズムへの反論
A3.1.1 ベネターの非対称性
A3.1.2 シフリンの非対称性
A3.1.3 良い人生は、本当に良い人生なのか
A3.1.4 苦しみの除去としての喜び
Q3.2 多くの人が生まれてよかったと考えているから、新たに人を生み出すことも許されるのでは?
Q3.3 アンチナタリズムは潜在的な存在の喜びの機会を奪っているのでは?
Q3.4 生きることはそれほど苦痛の多いことではないのでは?
A3.4.1 経験的事実による反証
A3.4.2 自然淘汰の働きによる説明
Q3.6 誰もが幸福に生きられる未来もいつかはやってくるのでは?
Q3.7 子供を作る時点では、その子供は存在していないから親の行為は罪になりえないのでは?
A3.7.1 爆弾魔と薬の思考実験
A3.7.2 バイオテクノロジー実験と気候変動対策
A3.7.3 非同一性問題
Q3.8 苦しみには様々な具体的な原因があるから、生み出すことそのものが危害とは言えないのでは?
Q3.9 生殖しなければ絶滅してしまうのでは?
Q3.10 子供をつくることは自然なことではないか?
Q3.11 仮に地球の生命がすべて絶滅しても、また新たに生じる可能 性があるのでは?/別の惑星にも有感生物が存在するのでは?
Q3.12 アンチナタリズムを他人にまで押し付けるべきではないのでは?
▼4. 関連する事柄/その他
1. アンチナタリズムとはどんな思想であり、どんな思想でないのか
Q1.1 アンチナタリズムとはなに?
▼ Answer
アンチナタリズム(Anti-natalism) とは、生殖を推進するnatalism に反対の立場として、哲学者デイヴィッド・ベネターらが導入した用語。ベネター自身は、自分で与えた名前なのか、以前どこかで耳にしたものか覚えていないと語っているが(Benatar 2015)、テオフィル・ド・ジローによる2006 年出版のフランス語の著書『L'art de guillotiner les procréateurs : Manifeste anti-nataliste』(de Giraud 2006) が最初ではないかと言われている。『Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence』(Benatar 2006)の出版も2006 年であるため、それぞれ独自に導入されたものと言って良いと思われる。日本語では「反出生主義」と言う訳語があてられることもあるが、このブログではアンチナタリズムで統一する。「反出生主義」と「アンチナタリズム」はそれぞれ独立に広まっており、一般的には「反出生主義者」を名乗るものたちは道徳的立場の表明として用いていない場合が多い、あるいは道徳的な立場として欠陥が多いためである。用語としては比較的新しいものだが、仏教などの東洋思想から、哲学者アルトゥル・ショーペンハウアの思想など、共通する思想としては古くから見られるものである(Coates 2014)。
アンチナタリズムの思想を一言で表せば「子供を生むべきではない」という考えである。ここでの「べきでない」というのは通常、道徳的に間違っているということを意味しているが厳密にはアンチナタリズムは必ずしも哲学的・倫理的理由から生殖に反対するものとは限らない。そのため、哲学的・倫理的理由を基にする生殖への反対的立場を表す言葉として「拒絶主義(Rejectionism)」という用語もある(Coates2014)。混同されやすい文脈などでは、道徳的な理由からアンチナタリストであることを明らかにするため、博愛主義的観点からのアンチナタリズム、厭人主義的観点からのアンチナタリズム、あるいはエフィリズム(Efilism) など、動機を明確にすることが望ましい場合もある。まずここで第一に注意しなければいけないのは、「生まれたくなかった」ではなく「生むべきではない」ということである。さらに厳密にいえば「作るべきではない」であって、生殖の責任を通常女性に一方的に負わせるものではない、ということである。
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Q1.2 なぜ生殖は悪のか?
▼ Answer
A1.2.1 生まれることで、他者に危害をもたらすから
狩猟採集民が初めてオーストラリアの浜辺に足を踏み入れた瞬間は、ホモ・サピエンスが初めて特定の大陸で食物連鎖の頂点に昇りつめた瞬間であり、それ以来ホモ・サピエンスは地球という惑星の歴史上で、最も危険な種となった。
ユヴァル・ノア・ハラリは『Sapiens: A brief history of humankind』(Harari 2014)でこう記しているが、実際、人類の歴史は他の生物の殺戮の歴史とも言ってもよいだろう。ホモ・サピエンス・サピエンスがヨーロッパにたどり着いたのは約4万年前であり、そこで栄えていたネアンデルタール人はその後絶滅した(原因については諸説ある)。オーストラリアにたどり着いたのは、6万5千年前から4万5千年前と考えられているが、ホモ・サピエンスはそこにいた大型動物の85%を絶滅に追いやった(Van Der Kaars et al. 2017)。続く1万2千年前には、アメリカにいた大型動物の約75%を絶滅させた。人類の足跡と共に死体が残されていくというこの風景は、最近ではマダガスカルに入植し、象やカワウソやキツネザルなどを絶滅に追いやった2000年前にも見られる。これらは、狩猟によって大型脊椎動物を追いやった第一の波、農業の発展により野生生物の生息地を奪った第二の波に区分される。そして三番目の波は、1800年代の化石燃料の利用によって始まり、現在も加速する人口爆発とグローバルな環境破壊による歴史上最大の大量絶滅の波である。絶滅そのものに問題はなくとも、その過程で途方もない苦痛がもたらされてきたことは、紛れもなく問題である。
Center for Biological Diversityの『人口増加と生物種の絶滅』より、人口の増加と生物種の絶滅の相関
学者たちは現在、我々が新たな地質年代に突入していると言ってよいのではないかと議論している。そして、その地質年代区分をアントロポセン(Anthropocene; 人新世)と呼ぶことが提案されている。これは、これまでの環境形成の主要な要因を担ってきた他の惑星との相互作用や太陽の熱、火山活動や大陸の移動、そして生物界全体の営みによる影響を越えて、人類の活動が環境形成の主要な役割を果たしているということを意味している。
気候変動研究の第一人者であるオーストラリア国立大学の化学者ウィル・ステッフェンと、環境問題を伝えるアナリスト、オーウェン・ガフニーは、それを示す単純な方程式を作成している(Gaffney and Steffen 2017):
人類が支配的になる40憶年もの間、左辺の地球システム(E)の時間にわたる変化率は、天文学的(A)、地球物理学的(G)力そして、内部のダイナミクス(I)によって決まる、とても複雑な関数だった。しかし、過去40年から50年の変化率は、純粋に工業社会(H)のみの関数になっているということを表している。 大気中の二酸化炭素レベルは、2016年についに400ppmという値を越えた(Kahn 2015)。これは、大気中の「安全な」CO2レベルはと言われる350ppmを超えており、最後に地球がこのレベルの濃度を経験したのは400万年前であるとされている(Kahn 2016)。そしてこの値を下回ることは二度とないかもしれないとさえ言われている。人口はこのままいけば、2020年までに80億、そして2050年まで90から150億まで増加すると言われている。
これだけの炭素排出の主要なソースの一つとなっているのは、畜産である。二酸化炭素を含め、畜産によって排出される温室効果ガスの量は、車、船、電車、飛行機などの輸送手段から排出されるものをすべて足し合わせたよりも多く、全体の19%から29%にも及ぶと言われている。これらのあらゆる排出源を確実かつ最も効果的に減少させる手段は、以下の図を見てもわかるように、子供を生み出さないことである。

また、畜産がもたらす危害は、言うまでもなく環境破壊による間接的なものだけではない。工業畜産場には、少なくとも数百億の動物たちが監禁されており、毎秒3000匹が屠殺場で殺害されている。畜産動物以外も考慮に入れれば、人間が食べるために殺されている動物の数は、毎年1500億にも上る。人間に利用されている動物はそれだけではない。実験に利用されている動物の数も1億を超える。ちなみに、ホロコーストの死者数は(諸説あるが)多くて600万人程と言われている。
では、子供をビーガンに育てればよいではないかと考える人もいるかもしれない。しかし、上の図を見ても明らかなように、例えビーガンであっても人間一人が及ぼす環境への影響は非常に大きい。また、人間が生まれることでもたらされる害は環境破壊などを通じた間接的な方法によるものだけでもなければ、他の種に属する者たちに対するものだけでもない。ベネターはこう説明している:
ホモ・サピエンスは最も破壊的な種であり、この大量破壊は他の人間に対して引き起こされている。人類はその種の起源以来互いに殺し合ってきたが、殺戮の規模(比率ではなく)は拡大している(とりわけ、現在では人類の歴史の大部分の間に存在してきた数よりも、非常に多くの殺しうる人間が存在するからだ)。何百万人もの人間が殺されたその手段は、恐ろしく多様なものであった。彼らは刺し、切りつけ、鞭を打ち、吊るし、ガスを撒き、毒を盛り、溺れさせ、爆弾を落とす。人間はまた、迫害し、抑圧し、殴り、焼印を押し、不具にさせ、苦しめ、拷問し、レイプし、誘拐し、そして奴隷化するなどして、自分の仲間に恐怖を与える。 楽観主義者たちは、将来の子供たちはそのような邪悪な加害者の一員になる可能性は低いと主張するが、それは事実だろう。少数の子供だけが人間に対する最悪に野蛮な加害者になる。しかし、それよりも遥かに大きな数の人類がそのような悪を手助けするのだ。迫害と抑圧は度々、多くの人間の黙認または共謀を必要とするのである。 いずれにしても、人間が他の人間に与える危害は、人権に関する最も重大な違反行為に限られない。日常生活は不誠実、裏切り、過失、残酷さ、有害さ、苛立ち、搾取、信頼の裏切り、プライバシーの侵害で溢れている。たとえこれらの事柄が、殺したり、身体的に傷つけたりしない場合でも、心理的に深い傷を負ったり、その他の損害を引き起こす可能性がある。このような害については、様々な度合いで、誰もが加害者なのである(Benatar 2017)。
これらが、人間はこれ以上子供を作るべきではないと考える理由の一つである。この考えを基にする立場は「厭世主義的アンチナタリズム」と呼ばれる。厭世主義的な議論については『ベネターの厭世主義的アンチナタリズム』も参照。
A1.2.2 生まれてくるもの自身に苦しみを押し付けることであるから
感情や感覚を持つ動物は、生まれてくることで多大な苦しみを経験することを免れ得ない。そしていつかは必ず死を迎える。多くの場合、そのプロセスにも酷い苦しみを伴う。一方で、存在を得ない限り快を経験しないことで困ることはない。よって、知覚を持つものにとって生まれてくることは害となる場合が多い、あるいは常に害であると考える。この考えを基にする立場を「博愛主義的アンチナタリズム」と呼ぶ。
A1.2.3 子供を作ることは他者を利用することだから
生れてくる子供は当然、生まれたいか生まれたくないかを判断することはできず、存在を得るかどうかの選択を与えられるわけではない。子作りは100%すでに存在しているものたちのために行われるものであるが、親が自分たちの喜びのために子供を作ったり、社会やなにかしらのコミュニティがその存続のために子供を作らせることは、いわば子供を一種の道具として利用するということであり、誰かを私欲のために利用することは道徳的に悪と判断せざるを得ない。
これらの理由は互いに排他的なものではなく、複数の理由から生殖に反対するということは十分ありうる。
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2. アンチナタリズムとはなにでないのか
Q2.1 子供が嫌いなの?
▼ Answer
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Q2.2 チャイルドフリーとは違うの?
▼ Answer
Q2.3 生に価値がないならなぜ自殺しないの?
▼ Answer
まず基本的な事実として、生きるか死ぬかという選択は、持続的に苦の伴う生を続けることを選ぶか、あるいは自ら命を絶つという最も苦しみの集中する選択をするかという「二種の苦しみの形体」からの選択であり、一方には一切のコストがかからない生まれるか生まれないかという(決して与えられない)選択とは全く事情が異なる。
これに対するより返答は『アンチナタリストはなぜ自殺しないのか』あるいは『ベネターのアンチナタリズムとプロモータリズム~基本的非対称性は自殺を示唆するのか』でより詳しく議論してある。
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Q2.4 殺しも肯定するの?
▼ Answer
次によく見られるのが、生殖は苦痛をもたらすため間違いであるという議論に対して、いわゆるエピクロス主義的議論をあてがうものだ。エピクロスの議論はこうだ:
死は存在せず。なんとなれば、われらの存在する限り死の存在はなく、死の存在あるとき、われらの存在することをやめるからなり
つまり、死に至るプロセスで生じる苦痛は害であっても、死に達した時点でそのものはすでに存在せず、死それ自体は害になりえないため、無痛な殺しなら容認されるのではないか、というものである。この問題は、まさに古代ギリシャの時代から哲学者たちによって議論されてきたものであるが、アンチナタリストに向けられるのは、これを博愛主義的アンチナタリズムの議論と合わせることで、積極的な無痛殺しが推奨されるのではないか、というものである。
これは純粋な快楽主義的功利主義(苦痛や快楽のみが道徳的価値判断の基準になるという立場)に基づく議論と見えるが、純粋に苦痛のみに価値を置くネガティブ功利主義者でさえ、この議論を容易に受け入れるわけではない。もしその対象がヒトや、少なくとも他の一部の哺乳類であれば、誰かの命を奪うことで遺されたものに大きな苦痛を及ぼす可能性があるため、いくら当個体が苦痛を感じなくとも、無害な殺しとはならない。それに、もしそのような行為を容認すれば、例えそのケースでは苦痛を生じさせなくとも、実際に苦痛を及ぼす形での殺しを促進しかねない。特にヒト社会では大きな社会的な混乱ももたらしうる。当然そこには不安や恐怖などのネガティブな主観的経験が含まれるため、無害な行為とは到底なりえない。
また、そもそもベネターの博愛主義的アンチナタリズムはネガティブ功利主義が基盤にあるわけではないし、その他の様々な見方から同様の結論を導くことも可能である。例えば一種の選好功利主義的な見方も支持するのであれば、快苦だけでなく、生きたいという意志なども尊重されるべきであり、それは死によって断絶されるべきでないと考えられる。そして、改めてもしそれを公に許容してしまったら、無痛とは言えいつその意志が断絶されるかわからないという不安から、他のものにも大きな悪影響を及ぼすことも想像できる。
いずれにしても、ベネターの見解はこの種の哲学的に答えの得られていない問題については、我々は慎重な態度を取るのが賢明である、というものであり
もしエピクロス主義が間違っているなら、(他者や自身を殺すことで)エピクロス主義的議論に従っている人たちは、殺されるものに深刻な危害を及ぼしていたことになる。一方私の見方が間違いであっても、(子供を生みださないことで)私の見方に従っていたものが、存在を得なかったものを害していたということにはならない(Benatar 2013)。
とも述べているように、アンチナタリズム(生殖の否定)を適用する限り誰も害されることはないが、それを向う見ずに拡大解釈することは危険を持つ。
つまり、生殖が悪かどうかの合意が得られていないとはいえ、(少なくとも一部では確実に)それによって害を被っていると判断できるものが存在する以上、より慎重な判断としてアンチナタリズム的判断をすべきであるが、一方で殺しは、それが大きな害となりうるという十分な可能性があるため、慎重な態度として逆の態度を取るべきである。よって、アンチナタリズムとエピクロス主義的態度はその点で真逆なものと言える。
ついでに、ナタリズム―他者に同意なく苦痛と死を押し付ける生殖という行為を容認する立場こそ、論理的には他者に危害を加えたり殺害することも容認する立場と解釈できることを指摘しておきたい。
最後に、殺しは直接的であれ間接的であれ苦痛を生じさせるかもしれないが、将来的に生じうる苦しみの量と比べれば、出来るだけ早く殺戮を行い絶滅させてしまう方が良いのではないか、という主張も考えられる。 これについては『それでも、生まれてこない方が良かった ― 批判への返答 by デイヴィッド・ベネター』の6節参照
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Q2.5 自分の人生が辛いだけでは?
▼ Answer
A2.5.1 客観的な道徳的主張
まずこの問いには前提の部分に誤解がある。アンチナタリストは自分が生まれてきたことを嘆いているわけではない。中にはそういうものもいるかもしれないが、アンチナタリズムという思想とは必ずしも直接関係があるわけではない。最初に説明したように、アンチナタリズムは「生むべきでない」であって「生まれたくなかった」という個人的な嘆きではない。
例えば、厭世主義的なアンチナタリズムは生のクオリティの評価とは関係がないし、博愛主義的な見方をするものでも、自分はたまたま恵まれた環境に生きているが、世の中にはそうでないものたちが多くいて、新たに生まれてくる子供がどちらの側になるのかはわからないし、不幸なものたちを助けようといくら努力してもきりがないため、そもそも動物は生まれてこない方が良いのではないか、という考えに至りアンチナタリストになるという人は多くいる。
A2.5.2 生殖のギャンブル性
二つ目は仮に生殖に反対しているあるアンチナタリストの生のクオリティが何らかの基準から見て低いものであり、当人もそれを主な理由としてアンチナタリズムを主張していたとしても、それがアンチナタリズムの正当性を示すのに十分な理由になりうるということである。つまり、生まれた子供の生がその人の生と同程度か、あるいはそれ以下になる可能性がある上、生まれて来る子供の生のクオリティを保証することは誰にもできないため、そのような無責任な行為は正当化されないということである。この議論についてより詳しくはQ3.1への回答参照。
A2.5.3 生のクオリティ
三つの目の回答は、客観的な事実として、ヒトを含めた動物の生は通常苦痛に満ちたものであるというものである。この点についてはQ3.4の回答を参照。
Q2.6 ニヒリズムなの?
▼ Answer
3. アンチナタリズムへの反論
Q3.1 生まれることで経験できる良いこともあるのでは?
▼ Answer
A3.1.1 ベネターの的非対称性
通常誰もが当たり前に受け入れている快苦の非対称性を明示したのがベネターの基本的非対称性である(Benatar 2006)。快の存在は良く、苦の存在は悪いということに異論があるものはそういないだろう(苦痛にも価値があるのでは?というへそ曲がりな主張への返答はQ3.5への返答を参照)。そして喜びを与えないことは悪いことではないが、苦しみを回避できることは良いことだということも誰もが認めることだろう。
この事実を改めて受け入れ、生殖に関する倫理に適用するだけで、例え生まれることで経験できる喜びがあろうとも、あらゆる知覚ある存在は生まれてこないほうがよく、生殖は道徳的に間違った行為であるという結論が自然に導かれる。
この基本的非対称性が、普段は誰もが受け入れている価値判断の仕方であることをより具体的に説明するために、ベネターは以下の4つの非対称な判断の例を挙げている:
(i)生殖の義務の非対称性―苦しむ人々を生み出さない義務はあっても、幸福な人々を生み出さなければならない義務はない。
(ii)将来の利益の非対称性―子供を作ることを、それによって利益を受けたいという子供の意志を理由にするのは奇妙である一方で、潜在的な子供の受ける害を理由に、子供に存在を与えるのを回避することは奇妙なことではない。
(iii)回顧的な利益の非対称性―子どもを生み出すことも、生み出せなかった場合も、ともに後悔/気の毒に思う対象となりうるが、本人のために後悔できる/気の毒に思えるのは自分の決断によって生み出した場合だけである。
(iv)遠隔地の苦しみと幸福の不在の非対称性―苦しみに満ちた異郷の地の住民について悲しく思うことはあっても、誰も存在していない場所に、ここに存在し得た幸福な人がいないことを、彼らのことを思って悲しく思ったりはしない。
これらの非対称性は一般的に広く受け入れられたものであり、ベネターの基本的非対称性によって統一的に綺麗に説明されることが見てわかるはずだ。逆に言えば、基本的非対称性の価値判断を変更することで、これらの認識と大きく矛盾する判断を導くことになる。つまり、これらの判断の根底には、ベネターの基本的非対称性があるはずなのである。この見方に対する批判もある。ただし、ベネターの基本的非対称性の意義を受け入れないで済ませるために行うべきことは、―苦痛にも良さがあるという根性論などではなく―これらの4つの非対称性をベネターの基本的非対称性に頼らずに説明するか、それともこれらの非対称を退けてしまうかであることである。
反論への再反論を含め、ベネターの非対称性についてより詳しくは『ベネタリアン的非対称性の評価の仕方』を参照。
A3.1.2 シフリンの非対称性
快と苦の非対称性の持つ別の非対称性を示しているのが、シフリンの非対称性である\(Shiffrin 1999)。シフリンは、ベネターとは異なり、生まれてくることが常に害であるとは仮定していない。しかし言い換えれば、例え生まれてくることが結果的に必ずしも悪いことではないと考えていたとしても、生殖自体は道徳的に問題のある行為だと示すことができる。
シフリンの議論はジョエル・ファインバーグの「生まれた人の苦しみの責任を、生み出した人たちに負わせるのは、災害や事故などに巻き込まれた人を救おうとするとき、救助のためにその人にやむを得ず怪我をさせてしまった人などを責めるようなものだ」という主張の問題を指摘するものであった。この主張は、「生まれることで、苦しみ(危害)だけではなく、それを上回る喜び(利益)も与えられるのだから、人命救助の際に命を落とさずに済む(利益)ことを理由により小さな怪我(危害)をさせることは許されるということと同じだ」という趣旨のものである。しかし、シフリンこの主張は、快苦の間に存在するある非対称性を無視していると指摘する。具体的には、より大きな危害(苦痛) を避けるということの利益と、純粋な喜びによる利益は違うということである。
シフリンの許容可能な危害の原理は以下のようにあらわすことができる:
承諾なく対象者Aに危害を及ぼすことは、以下の条件が満たされる場合かつその場合に限り許容される:
a) その危害によってAを、これまで存在している危害、あるいは今後予期される危害から救うことが合理的に予測できる。
b) 及ぼす危害が、回避しようとしている危害より小さいものである(Singh 2012)。
この原理に従えば、上の救助の例や、あるいは幼い子供の外科手術のように、同意を得られない相手に苦痛をもたらすとは言え、それが対象に及ぼされることが合理的に予測されるより大きな危害から救うためであればその苦痛は正当化されるが、生殖のように純粋な喜びを理由に同意の得られない他者に苦痛を強制することは許されないということがわかる。
そして実際に我々がこの原理に従わなければならない理由は、その原理を退けた場合にどのような行為が正当化されてしまうか考えれば直ちに明らかになる。
例えば何らかの理由で同意の得られない他者の所有物を、対象の利益のためとはいえ、勝手に売り払ってお金に替えてしまうといった行為は正当化されないということがわかるだろう。
反論への再反論を含め、シフリンの非対称性についてより詳しい議論は『「生まれてよかった」は生殖を正当化しない―シフリンの原理と承認による反論』を参照また、快苦の間にある対称性を示す経験的事例についてはQ3.4の回答も参照。
A3.1.3 良い人生は、本当に良い人生なのか
良い経験が多くあるからといって、その生自体が客観的に見て実際に良いものであるともいえない。ある思考実験をしてみようA という子供がいる。A は親によって生まれつき地下室にある窓のない部屋に監禁されており、外に出たことはない。必要最低限の食事しか与えられないA の身体は、同年代の外の子供と比べ少し小柄である。しかし、部屋は清潔で、数日に一度入浴も許される。また、絶えられないほど大きな空腹や渇きを感じたりすることもない。親はA に優しく接するし、一日の暇をつぶすおもちゃも与えられている。そして、別の生活形態があることを知らないA は、生まれつきこれが当たり前の事だと教えられているため、その生活に深い絶望を抱いたこともない。とはいえA の部屋にはテレビがあり、一般的な社会で放映さもない。とはいえA の部屋にはテレビがあり、一般的な社会で放映さし出されるのは全くのフィクションであり、A が接触できる世界ではないとも教えられているため、A はその中の世界に強い好奇心を抱いたり、羨望を感じたりはするものの、それを本気で得ようと考えたりはしない。代わりにA の人生で最大の喜びは、月に一度与えられる甘いチョコレートを食べることである。そのような生活にA はわずかな満足さえ感じており、それを提供してくれる親に漠然と感謝もしている。
さて、このA という子供の生についてどう感じるだろうか?A には通常なら得ることの出来た多くのものが与えられていない。A が自身の生活に大きな絶望を抱いてはいないとはいえ、それは明らかに自分に与えられたものに対して適応的な心理反応が起こっているからであり、客観的な基準から見ればA の生活は惨めなものだと判断するだろう。そしてA に対し不当な生を一方的に強制している親は、道徳的に間違っていると感じるだろう。
しかし、我々自身についてはどうだろうか?我々は理想的な見た目、理想的な声、理想的な体質を持ち、理想的な技能を身に着け、理想的な職に就いたり、望むものは理想的なパートナーと繋がったり、理想的な家に住み理想的な生活を送ったりすることを夢見る。そしてそれは、原理的には不可能なことではない。しかし、それらの理想を得るための条件は、遺伝や環境に強く依存する厳しいものであり、かつ我々は、それらの条件に見合うものとは程遠い遺伝子と環境を生まれつき親によって一方的に与えられている。そのため、それらの理想を夢見ると同時に、それらが現実的ではない一種のフィクションの世界でしか実現されないものであるといった認識をする。そして、与えられたものによって構成される世界に適応し、わずかに与えられる喜びが十分なものであると信じ込むようになる。これはまるで、A が拘束された生活の中でテレビ越しに見る世界や月に一度のチョコレートに対して取る態度と同じである。
つまり、生殖とは、非常に多くの可能性の中から、ほんのわずかしか達成することの出来ない生を一方的に強制することであり、生まれたものが幸福とみなすものは、初めから与えられたわずかな可能性しか持たない世界に適応し、その中で得られるものの中から少しでもマシなものを見出して主観的に判断した結果にすぎず、客観的に見れば、それは生殖を正当化するには、あまりに取るに足らない幸福に過ぎないのである。
ベネターも同種の議論をしており、彼はもはや人間では経験できないような充実した生を例に挙げている。そしてそれに対する、人生のクオリティを評価する際に、「人間とはどういう生物であるかを考慮しなければならない」という主張、例えば若くて健康なまま数百年生きることは良いことかもしれないが、そのような人類として実現不能なものは、客観的に良いもの(objective goods) には含まれない。そうでなければ、人生が現在のものよりはるかに悪く判断されてしまうという反論にもこたえている:
これに対して主張されるかもしれないことは、これらの良さ(goods)は、人類には達成不能であり、これらの良さで特徴づけられる人生は、もはや人類の一生とは言えない。したがって、人生のクオリティを判断しようとするなら、通常の人が達成可能な基準を用いなければならない、というものだ。しかしこの返答は人類の生を崇めすぎている。なぜそうであるかを見るために、ホモ・インフォチュナタス(Homo infortunatus)とでも呼ばれるある空想の種を考えてみよう。この種のメンバーの一生のクオリティは、ほとんどの人間より低いものである。彼らの痛みや苦しみは多大だが、喜びがないわけではない。この種のメンバーが貧しいクオリティの一生を送るという主張に対して、楽観主義者たちは、もし彼らの一生が著しく良いものであったら、彼らは単純にインフォチュナタスではなくなる、と言い返すかもしれない。この返答は印象的なものにはならない。(a)ある種のメンバーの一生がどれほど良いものか、ということと、(b)その種のメンバーであることで、どこまで良い一生が可能か、を問うことは異なる。確かに、ホモ・インフォチュナタスのものより、はるかに良い一生を送るものは、もはやインフォチュナタスではないかもしれないが、それがそこまで悪いものではなくなるわけではない。同様に、我々のものよりはるかに良い一生は、もはや人間の一生とは言えないかもしれないが、だからと言って人間の一生がそれより良い一生と比べて悪いものでなくなるわけではない(Benatar 2013)。
生のクオリティの評価については、Q3.4への回答も参照。
A3.1.4 苦しみの除去としての喜び
喜びとは(少なくともその多くは)、苦しみを取り除いた際に生じるものであり、初めから苦痛がなければ喜びを求める必要がないということも言える。つまり、幸福の必要がなければ、幸福をあえて与えることに価値はないのである。ベネターは簡潔にこう述べるている:
必要が満たされることが良いのは、その必要が存在する場合だけだ(Benatar and Wasserman 2015)。
また、喜びは苦痛の除去に過ぎないという点について、ショーペンハウアーの洞察もまた的確である:
あらゆる成就、あるいはひとびとが通例幸福と呼んでいるようなことは、もともと本質的に言えばいつも単にネガティブ(消極的)なことにすぎないのであって、断じてポジティブなことではあり得ない。それはもともと向かうからわれわれの方におのずと近寄ってくる祝福ではなく、いつの場合もなにかの願望の成就といったことであるほかないものである。願望、すなわち欠乏があらゆる享楽を成り立たせる先行条件である。ところが願望が成就すると、その願望も、したがってまた享楽もなくなってしまうであろう。そういうわけだから満足とか幸福とかいってみても、それはなんらかの苦痛、なんらかの困窮からの解放という意味以上のものではあり得ない。苦痛とか困窮といった場合、その中に含まれるのは単に現実的なあからさまな悩みだけでなく、煩わしさのために絶えずわれわれの安息がかき乱されるような願望もその中に入っているのであって、いな、それのみならず、われわれの存在を重荷として感じさせるところのあの殺人的な退屈感さえも、この苦痛、困窮の内に含まれる(Schopenhauer 2004)。
この欲求が満たされていることは、そもそも欲求が存在しないことに比べてマシなわけではないという考えは、現代では反不充足主義(Antifrustrationisim) と呼ばれるが(Fehige 1998)、クリストフ・フェーイゲは以下の例を用いてそれを示している:
シドニーオペラハウスから一番近い木を赤く塗り、ケイトという少女にシドニーオペラハウスから一番近い木が赤いことを望むようになる薬を与えたとしたら、我々は何か彼女に利益を与えたといえるだろうか?(Fehige 1998)
これは、和製英語の「マッチポンプ」という言葉が表すことそのものである。インメンダムも「ブリーダーは自分で火をつけて消している消防士のようなものだ」と述べているが、自分でネガティブな状態として存在を与えておいて、それを改善すること(喜びや幸福)に何か内在的な価値があるかのように振る舞うのはバカげているということである。
これに対し、利益は除去的利益(relief benefit)と内在的利益(intrinsic benefit)に分類することができ、価値論的非対称性は内在的利益について適用されるものだという返しも考えられる。しかしそれでもまだ問題がある。利益の除去的効果というのは、すでにある欠乏を埋めるだけでなく、新たに欠乏―したがって苦痛―が現れないようにする予防的効果も含んでいるため、除去的利益と内在的利益の区別は全く明確なものでないからだ。 人間関係によるものなり社会承認などによるものなり、なんでも良いが、対称性の支持者が純粋な内在的利益として挙げるものすべてが存在しない人生を考えて見れば、それが極めて退屈で苦痛のあるものであることがわかるだろう。
そして仮に除去的利益とは完全に区別できる内在的利益が存在したとしても、少なくともそれは、直感的に考えられているものより遥かに少ないものになり、それに対称性の議論を適用し非対称性の議論を退けたところで、存在を得ることに好意的な判断を下すに十分な利益の可能性は手元に残らないだろう。
A3.1.5 喜びの犠牲
以上の議論に加え、例え生まれたものが喜びを経験しようとも、その喜びのために犠牲になる他者が存在することを理由に、この種の主張を無効にすることもできる。より詳しくはA1.2.1参照。
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Q3.2 多くの人が生まれてよかったと考えているから、新たに人を生み出すことも許されるのでは?
▼ Answer
新たに生まれてくる人間がどのような一生を歩むかは誰にも予測することができず、その人が上のような統計に含まれる一人にならない保証はない。同意を得ることなく、そのようなギャンブルに参加させることは道徳的に許されることではない。
また、そもそも本人が生まれてよかったと思ったとしても、それは生殖を正当化する理由にはならない。その理由として、一つは、その人生の主観的な評価が正当なものであるとは限らないということ。もう一つは、喜びは承認とは異なるということが挙げられる。これらについてより詳細な議論はQ3.1の回答を参照
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Q3.3 アンチナタリズムは潜在的な存在の喜びの機会を奪っているのでは?
▼ Answer
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Q3.4 生きることはそれほど苦痛の多いことではないのでは?
▼ Answer
A3.4.1 経験的事実による反証
デフォルトとしての苦痛とバイアスによる隠ぺい
今この瞬間、あなたの経験している全身の感覚に注意を向けてみてほしい。かすかな空腹、鼻づまり、ノイズ、だるさ、かゆみ、痛み、暑さ・寒さ、不安、退屈、etc、そこには何らかの不快が存在しているはずだ。その理由は
人生は絶え間ない努力の状態である。痛みの予防、喉の渇きを満たす、不満を最小限に抑えるなど、私たちは不快感を回避する努力を費やさなければならない。私たちの努力が欠如すると、不愉快なことはいとも簡単に起こる。それがデフォルトだからである(Benatar 2017)
とベネターも述べているとおり、それがデフォルト、すなわち基本的な状態だからである。欲求についてより詳細な分析を引用すれば
欲求は満たされているか、満たされてないかどちらかである。我々は通常、得られるより多くを望むため、決して満たされない欲求の方が多い。たとえば、何十億という人々が、より若く、より知的で、より良い見た目になりたいと思っているし、より多くの(そしてより良い見た目の相手と)セックスしたいと思っている。そして、より良い仕事をし、より成功し、より豊かになり、より多くの余暇を過ごし、より病気にかかりにくくなり、より長く生きたいと思っている。また、欲求が満たされる場合も、それらがすぐに満たされることはめったになく、しばしば満たされるまでに非常に長い時間がかかる。したがって、欲求はそれらが生じ、最終的に満たされる時までの間、満たされない状態が続くのである。欲求は最終的に満たされると、それが持続するかしないかであるが、後者がより一般的である。例え満足が持続しても、通常また新たな欲求が現れる。したがって、一般的なパターンとしては、比較的短い満足された期間を点々と挟んだ、欲求不満な状態なのである。したがって、我々が満足された状態よりも多くの時間を満足されないまま費やすと考える非常にもっともな理由があるのだ(Benatar 2013)。
と説明されるとおりである。そして、欲求が一時的に満たされたからと言って、苦痛から解放されるわけではない。我々の経験には「飽き」と「退屈」が存在するからだ。この点についてはショーペンハウアーの言葉を引用しよう:
一切の生あるものを駆り立てて動かし続けているのは、生存への努力だろう。ところが一旦生存が確保されてしまうと、彼らはこの先どうしたらよいかわからなくなってしまうのだ。そのため彼らを動かす第二のものは、今度は生存の重荷から逃れ出して、それをもう感じないようにしようという新しい努力となるのであり、「時間をつぶす」こと、すなわち退屈から逃れようとする努力となるのである。つまり、われわれに今わかってきているのは次のようなことだ。困窮も心労もなく安全に守られているほとんどすべての人々は、一切の余計な重荷を払いのけるに至ったかと思っていると、今度はたちまち自分自身が重荷として感じられてくるということである。それで、これまで彼らは人生をできるだけ長く維持しようと全力を傾けてきたはずだというのに、今度は他ならぬその人生を削り取るようなことを、そのつど、すなわち浪費的に過ごしてきた一時間一時間を、儲けものだと思うようになってくるのである。ところで退屈というのは、みくびっても構わない害悪では全くないのであって、退屈がつづいていくとしまいには容貌にまで正真正銘の絶望の面影がきざし始めるようになるであろう。お互いにほとんど愛し合ってもいない人間のような存在が、それなのにあれほど熱心にお互いに求め合っているというのも退屈のせいなのであり、そこで退屈こそが社交の源泉だというようなことにもなってくるのである。だからまた退屈を防ぐためには、どこの国でも他の一般的な災難を防ぐのと同じように公の防止対策が講じられているのであって、これは国策からおこなわれることでもあるのである。というのも、この退屈という害悪は、その反対の極である飢饉と同じように人間をはなはだしい無法状態へと駆り立てかねないものだからである。民衆というものは「パンとサーカス」を必要とするのである(Schopenhauer. 2004)。
しかし我々は普段、種々のバイアスによって、これを「中立的な」状態だと錯覚するようになっている。これについては、メッツィンガーの分析のとおりである:
もし、機能的に可能な現象論的細かさの最も最小の内省的レベルで、ある自己意識的システムがあまりに多くのネガティブに価値づけられた瞬間を見出したとしたら、その発見はそれを麻痺させ、それが再生されることを避けるようにするだろう(Metzinger 2017a)
つまり、その基本的な状態がほとんどネガティブな状態に支配されているというのなら、人間の心理的メカニズムは、それを生のクオリティの評価に加算されないように隠ぺいしてしまうだろうということだ。そしてこう鋭く指摘する:
おそらく、これこそまさしく、日々の暮らしの醜い細部を、大げさで非現実的な楽観的内部ストーリー―「物語り自己モデル」を発展させることで美化する適当な自己欺瞞を構成し、生物を絶え間なく前進させるという人間の自己モデルの高次のレベルの主要な機能であろう。
すなわち、これが進化的に獲得された一つの基本的な機能なのだ。そして、このように続ける:
成功するどんな主体者も、自発的な動機付けが可能でなければならない。この自律的動機付けの問題への一つの解決策は、私が「自筆的ゲシュタルト形成(autobiographical Gestalt formation)」と呼びたいと考えているものである、より大きなタイムスケールへの自動的逃避によって構成されるかもしれない。進化は、現在が退屈であったり、単純にあまりに不快となったりした途端、自動的に自分の境界を拡大する自己モデルを生み出してきたのだろう。…この投機的仮説を「物語的自己欺瞞」と呼ぼう。
要するに、我々は主観的経験が苦痛に支配されているという事実を隠蔽することで積極的に生物としての営みを続けることを自ら動機づけるのである。
これらのバイアスの一つとして、ポリアンナ・バイアスと呼ばれるものが心理学的に認知されている。これは、うつ病などの人を除いて、人は不快な経験よりも好ましい経験の方をよく思い出すという傾向のことであり、人が自分の人生の総合的な評価を過大に見積もる傾向にある原因の一つである。
また、幸福は持続せず、やがて飽きと退屈を導くという人間の心理的適応を説明するものとして、ヘドニック・トレッドミル仮説と呼ばれるものがある。トレッドミルとは、日本では一般にルームランナーと呼ばれる器具のことであり、ヘドニック・トレッドミルはそれになぞらえて、幸福度が一時的に上がったり下がったりしても、ルームランナーのように自然と元のレベル戻るという様を表している。ヘドニック・トレッドミル仮説の適切さについては議論もあるが(Frederick 2007)、それを支持するケースは実際にいくつも報告されている(Baumeister et al. 2001)。しかも、良い出来事が起こった場合より、悪い出来事が起こった場合の方が、幸福度が元のレベルに戻りにくいことが観察されている(Brickman et al. 1978)。また、基準となる幸福度をヘドニック・セットポイントというが、このセットポイントの大部分は遺伝的に決定されてしまう可能性が、双子を対象とした研究によって示されている(Lykken and Tellegen 1996)。つまり、我々は普段自分たちで思っている以上に不満足を抱えており、質の低い生を送っている。そして、自分で行う評価の基準さえ遺伝的に拘束されている部分が大きく、努力してその基準を押し上げてもやがて元に戻ってしまう。一方で悪い経験はより持続的であり、主観的な評価により大きな影響力を持つ。
Bad is stronger than good
苦痛が支配的である理由は、苦痛を経験する頻度や時間が喜びに比べて圧倒的に多いだけではない。
バウマイスターらの論文『Bad is stronger than good』(Baumeister et al. 2001)でいくつもの具体的な研究事例と共に示されているように、苦痛は喜びにはない圧倒的な影響力があり、たった一つの悪い経験が、最良の経験をいくつ合わせても乗り越えられないほど強い影響をもたらすこともある。
例えば幼少期の虐待や性暴力などは―たとえそれが一度や二度の出来事であっても―、その後どんなに良い経験をしても埋め合わすことのできない傷を残しうる。いかなる苦痛によっても打ち消されることのない喜びなど存在しないことを考えれば、ここに決定的な非対称性があることがわかるだろう。性体験は時に最も大きな喜びをもたらすものの一つとみなされるが、ただ一度の悪い経験によって、どんな性的魅力を示されても拭うことのできない嫌悪感を抱くようになったり、機能不全に陥ることがある。現在では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉も一般的に認知されてきており、このような症状が極めて深刻な影響をもたらすということが客観的な事実であることにも異論はないだろう。
また、これらのような特に強い影響を持つ事象だけでなく、全く日常的な経験の観察から、いくつかの臭いをかぎ分ける実験まで、多くの研究が、不快な経験のほうが我々の心理に強い影響をもたらすことを示している。バウマイスターらはこう結論付けている:
ささいな日常的出来事や嫌な臭いに対するわずかな実験的曝露から、人生における大きな出来事やトラウマまで、証拠はあらゆる範囲をカバーしている。悪い出来事はより多くの情動を生み出し、調整計測により大きな影響を持ち、そしてより長く持続する影響を持っている。
喜びを得るためのコスト
喜びより苦しみが上回ることを示す別の経験的な事実は、通常喜びを得るにはコストが必要とされるということである。一人で何もない部屋にじっとしていても得られる喜びは少ないばかりか、先に述べたように、退屈と身体の自然な性質によって自動的に苦痛がもたらされる。それを解消し喜びを得るには何らかの活動を行う必要があるが、それには、努力に伴う新たな不満足や疲労に加え、金銭や時間など多くのコストがかかる。これらのコストはさらなる苦痛をもたらす悪循環に導く。時間、体力、資産には限りがあるため、一部の願望を叶えるには別の願望の成就をあきらめることが強いられるためである。
つまり、人は叶えられるよりもはるかに多くの願望を抱き、それらを叶えるために多くの犠牲が要求され、たとえ願望が成就しても飽きと退屈に悩まされる。このことだけを考えても、人生には喜びや満足より圧倒的に苦痛のほうが多いことがわかるだろう。
A3.4.2 自然淘汰の働きによる説明
ではなぜ、我々の身体はそもそもそのような苦痛がデフォルトの状態と構成されているのだろうか?苦しみが支配的である理由は、自然法則の一つの当然の帰結と言える。外部とのエネルギーのやり取りによって複雑で秩序だった構造を維持している生物個体は、それを怠ることで自然と崩壊に向かう。そして自然淘汰は、身体全体で起こる崩壊に向かう状態変化を上手くモニターできる個体を構成する遺伝子に有利に働き、モニター機能が劣る、あるいは持たない個体に属する遺伝子は淘汰されやすくなる。意識的知覚を持つ動物にとってこの検出システムによる警報は意識的苦痛を伴うため、我々ヒトを含めた多くの動物の主観的経験はほぼ常に何らかの苦痛―マイルドな場合は「漠然とした不快」―に支配されている。
また、苦痛が持つのは身体状態のネガティブな変化を伝達するシグナルとしての役割だけではない。個体の身体の安定的な状態を確保しただけでは、次世代への遺伝子の受け渡しは出来ないため、我々の多くは絶えず欲求不満を感じ、行動に駆り立てられている。それは純粋な性的欲求不満として現れる場合もあれば、孤独、嫉妬、購買欲など、他の様々な形で現れる場合もある。ある程度で満足し、集団全体の利益のために互に協定を結べばよいではないか、と思うかもしれないが、自然淘汰はそのようには働かない。例えば簡単なモデルとして、資源が余ったとしても、必要最低限の資源で満足し、誰もが平均的な生を送ることでそれ以上のフラストレーションを経験しない個体だけで構成される集団を考えたとすると、当初は安定的に世代交代を行うかもしれないが、突然変異によってより強い欲求を持ち集団を出し抜く個体が生まれる。節度ある個体によって構成されるその集団の中では、そのように出し抜き戦略をとる個体にとって好都合な環境が構築されるため、出し抜き戦略を取る個体の遺伝子はすぐさま集団中に広まり、協定的な集団は崩壊する。すなわち、ほどほどで満足する戦略は進化的に安定な戦略にはなりがたいのだ。ちなみにこれは、「種の保存の本能」というものが進化的に生じえない理由と同様のものである(仮にそういった形質を持つ個体が生まれても、集団中にその遺伝子が広まることはない。種の保存の本能の誤りについては、Q3.10でも簡単に触れている)。
遺伝子からすれば、個体に対して、破滅的な行動を誘導しない程度のフラストレーションを常にかけ続けることで、個体の(直接的であれ、間接的であれ) 繁殖行動を駆動し、自身の複製可能性を向上させるという手段が合理的なものになりうるということは容易に理解できるだろう。リチャード・ドーキンスが
DNA が受け渡されさえすれば、それは、その過程で誰が、あるいは何が傷つけられようが気にすることはない。遺伝子は苦しみを気にしない。彼らは何も気にかけることなどないからだ(Dawkins 1995)。
と簡潔に言い表しているように、例えある生物個体が生涯に酷く苦しもうが、それがその苦しみによって動機づけられ、自分の持つ遺伝子の複製にうまく寄与するのであればその苦しむ存在の形態は世代を経て存続されていくのだ。
また、苦しみは遺伝子の存続に必ず寄与するということでもない。例えば生殖を行い(そういった行動を行う動物の場合)、自分の子が生殖可能な程度まで生き延びるために必要な手助けをすべて済ませた後であれば、その個体がどれだけ苦しもうが適応度に影響を与えない(集団生活をする個体の場合、あまりに深刻な苦痛は行動に著しい影響を与え、包括適応度を下げるかもしれないが、包括適応度を上げるための行動はむしろ苦痛を増やすことも多い)。言い換えれば、苦しみを和らげたところでその個体の持つ遺伝子の適応度が高まるわけではないため、自然淘汰があえてその方向に働くことはないのだ。自然淘汰が適応度に影響を与えない苦しみに無関心であるという別の例としては、「死」に伴う苦しみが最もわかりやすいだろう。すなわち
一度その不可避な点に到達したなら、進化圧はその感情経験を拘束することは出来ない…。死は(少数の幸運なものにとってのように)無痛なほどマシなものでもあれば、(他の多くのものにとってのように)拷問のように酷いものにもなりうる。進化が、死が耐えがたいものであることを避ける理由は存在しない(Tomasik 2015)。
とブライアン・トマシックが説明しているとおりである。
念のため注意しておくが、ここでは我々にとって苦しみがデフォルトであるように進化してきた理由として生物の生存戦略を説明したのであり、それらを道徳や他の規範によって制御できないといっているのではない。むしろアンチナタリズムはその一つの典型的な例である。また、遺伝子の「ために」とか、遺伝子の「利益」などの表現もすべてメタファーであるということも改めて注意しておく。
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Q3.5 苦痛は必ずしも悪いものではないのでは?
▼ Answer
苦痛そのものに価値はないということを理解するには、死ぬ間際の苦しみを考えて見ればいい。周りからは穏やかに息を引き取っているように見えるが本人は途方もない苦痛を経験して死んで行くとする。さて、本人の今後の経験にも他者への教訓にもならないこの苦痛が、何らかの価値を持ちうると思うだろうか?
答えは否だろう。苦痛が持ちうる価値とは、例えばその苦痛によって他者の痛みを理解できるようになるとか、同じ危険を二度を犯さないようになるとか、そういった利益に結び付けられるという道具的な価値でしかなく、もし全く同じ結果が苦痛なく得られるのなら(苦痛を経験せずに何かを得たということによるディスアドバンテージもないとする)、苦痛がないほうが良いことは明らかである。まして、何かを学んだり、危機を認識する必要がないものに、あえてその必要を強制するに値するような内在的価値は苦痛には存在しない。
また、仮に苦痛も価値を持ちうるということを認めたとしても、それによって生殖を正当化することはできない。あなたが苦痛に価値があると考えていたとしても、生まれてくるものがその考えを共有することは保証されないからである。これについてのより詳細な議論はA3.1.2 シフリンの非対称性を参照
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Q3.6 誰もが幸福に生きられる未来もいつかはやってくるのでは?
▼ Answer
ポジティブな経験より、ネガティブな経験の方が圧倒的に多い原因は、生物のシステムそのものにある。そのためトーマス・メッツィンガーも「苦しみと幸福の割合を変化させることは不可能だろう」と述べているが(Metzinger 2017b)、これはおそらく正しいだろう。
(ただし、ゲノムの改編や人工装置との統合により、我々のbiologyそのものを変化させる技術が発展すれば、それは可能になるかもしれない。苦しみの根絶のための手段として、そのようなトランスヒューマニズムの利用を訴えているのが、哲学者デイヴィッド・ピアースである(Pearce 2007, Pearce 2009)。彼の思想については『ヘドニズム的使命』を参照。)
しかし、仮にそのような未来を現実的に描けたとしても、依然として生殖を正当化することは出来ない。第一に、新たに生まれてくる者たちは、そのような「あなたの個人的な理想」を共有するとは限らない。そして、そのような未来に達するまでの踏み台となるものたちの苦しみは、将来の誰かが得られる快や幸福によって埋め合わせられるものではない。いつたどり着くともわからない理想のために、同意の得られない他者に苦痛を強制するべきではない。幸福な世界が必要なのは、不幸に苦しむものをなくすためであって、幸福を必要としてすらいないものに、幸福を追求するための努力を強制すべきではない。改めて、個人的な願望のために他者に一生分の苦しみと死を強制するというのは、これまでの別の項目でも述べているように他者の道具的な利用であり、正当化することはできない。
Q3.1の回答での議論を考慮すれば、存在するものの選好が満たされていることや喜びが経験されていることは、選好を持つものや喜びを経験しうるものが存在しないことに比べてマシな訳ではないため
A:苦しみが存在せず、快しか経験しない世界
B:知覚を持つものが存在しない世界
の価値は等価であり、原理的により困難に思えるAを目指すために、より多くの苦しみを積極的に生産するのは不合理と言える。
Q3.7 子供を作る時点では、その子供は存在していないから親の行為は罪になりえないのでは?
▼ Answer
A3.7.1 爆弾魔と薬による思考実験
まず簡単な例を考えよう。ある赤ん坊Aが爆発事件で怪我を負ったとする。それはある爆弾犯Bが意図的に仕掛けた時限爆弾によるものであった。だがBがそれを仕掛けたのは一年前であり、その時点で赤ん坊Aは存在しておらず受精もしていなかったとする。さて、Bは、Aが存在を得る前に行為を完了しているという理由で、責任を問われないだろうか?恐らくそうは思わないだろう。
あるいはまた別の単純な思考実験を考えることもできる。ある薬が存在し、それを飲んだもの自身はいかなる害も被らないが、その人が子供を作った場合、生まれてくるその子供は耐え難い痛みと苦しみに襲われるようになるとする。それを子供を作る予定のある人(あるいはその予定がない人であっても)にこっそり飲ませることが、道徳的に問題のない行為だと主張することは出来ないだろう。
A3.7.2 バイオテクノロジー実験
だがこの質問の示唆する主張には、上で挙げた例よりもさらに現実的で重要な問題を導く。アンチナタリズムから身をかわすことに気を取られているうちに、生殖に関するより身近な別の倫理的問題を忘れている(この種の議論をする人には、もう少し自分の足元に慎重になることを勧める)。
子供を作る時点で子供は存在していないからという理由で、親は生まれてくる子供の苦痛に何の責任も持たないというなら、例えば、事前に生まれてくる子供にとって望ましくない結果になると明らかにわかるような劣悪な環境に生み出すことも問題視できないし、バイオテクノロジーによって、純粋に猟奇的な理由から残酷な身体的欠陥を持った存在を生み出すことも道徳的に問題とみなせなくなる。
メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』(Shelley 1818)に登場する怪物は、自身の醜さゆえに人々に迫害され、孤独と絶望の中自身の存在に苦悩する。実際に存在が与えられるまで対象は存在を得ていないからという理由で、生殖(あるいは何らかの別の方法)によって苦痛を強制することがフリーパスに許容されるという考えは、彼のような存在をあえて生み出すことも正当化されるという結論も導くのだということを認識すれば、その種の主張を通すことは、生殖を正当化するためには大きすぎる代償を伴うということが理解できるのではないだろうか。
また、これは単なる思考実験ではなく、クローン人間やヒトと異種とのハイブリッド動物の作成は現実に可能であり、残念ながら一部の実験はその領域に足を踏み入れている。この種の研究に関する道徳的判断に、生まれてくるもの自身の利害は無関係であり、社会的影響等を無視すれば、このような技術利用も完全に道徳的に許容可能であると考えるものは多くないだろう。
別の現実的な問題として、環境政策が挙げられる。例えば現在の世代が、環境破壊に配慮することも、資源の枯渇にも配慮することなく生活を送れば、その世代やその後の数世代の人生のクオリティは向上するだろう(ここで、議論のために他の生物集団にもたらす悪影響は考慮しない。また、以下この節では、簡単のために人間に関するケースのみに限定して話を進める)。一方でそのつけはその後の世代に回され、数世代先に生まれてくるものたちは負債を背負うはめになる。しかし、ナタリストの採用する推論に従えば、環境破壊や資源の枯渇はまだ存在していない未来の世代に悪影響を及ぼすが、そのような選択でより悪い状態に置かれる誰かは存在せず、異なる選択をとった場合に生まれてくるであろう存在とも同一ではないため、悪いこととは言えないということになる。
ここで挙げた例は極端な例だという反論もあるかもしれない。しかしそれは問題ではない。ここで問題にされているのは、子供を作ろうとした時点で被害者が存在しないからといって、生殖によって及ぼされる害の道徳的責任を親に帰せないのかということであり、どんな例であれ、親の責任を問えるということさえ認められるならば、質問の示唆する反論を無効なものとするのに十分である。
A3.7.3 非同一性問題
「生まれないほうが良かった」というとき、生まれなかった場合には本人は存在しないのだから、存在しないことと比べて生まれないほうが良い(better)とは言えないのではないか、という主張もある。この問題は非同一性問題(non-identity problem)として知られている(Parfit 1984)。念のため指摘しておくと、これが問題とみなされる理由は、当然この推論には何らかの間違いがあるからである。哲学者の間で議論されていることは、この推論のどこがどう間違っているかということであって、我々がこの推論に従って破滅的な選択を承認しなければならないということではない(Roberts 2009)。そして、実際この問題の論理的解決法はすでにいくつも提出されている。以下でそのうちの一つを説明する。 非同一性問題が生じる原因は、その基にある仮定にある。その仮定とは、以下の行為が危害となる条件
(P1): Pによるある行為がQにとって危害となるのは、Pがその行為を行わなかった場合と比較して、その行為がQをより悪い状態にする場合である。および、行為が間違い出ることの条件
(P2): あるPの行為が間違いであるのは、その行為が他者にとって危害となる場合である。を正しいとするものである。この見方は比較的な危害の定義と呼ばれる。生殖が間違いであるためには対象を害さなければならないが、比較的な危害の定義に従う限り、生殖によって生み出されるものを害することはできなくなってしまうことになる。
しかし、そもそもこの仮定は論理的にもっともらしいわけでもなく、正しいと想定する理由もない。なぜなら、現在の状態が本人にとって悪いものであることを判断するのに、別の状態と比較する必要は全くないからである。痛みやかゆみなどの感覚は、何かと比較して相対的に存在する感覚ではない。特定の瞬間の脳状態を外部から定性的に解析することにより、第三者的にその状態の「悪さ」を理解することもすでに可能となっている(see e.g. (Saarimaki 2015))。原理的にはこれを定量化することも不可能ではないだろう。よって、比較的な危害の定義ではなく、場合によっては非比較的な危害の定義
(P1'): Pによるある行為がQにとって危害となるのは、その行為の結果としてもたらされるQの状態が、Qにとって悪いものである場合である。を採用することができる。ファインバーグも類似の例で指摘しているが(Feinberg 1986)、例えばある人が末期の病によって、生きることによるいかなる喜びも享受することができず、ただ深刻な苦痛に悩まされ続ける他ないといった状態に陥ってしまったとき、その人にとって人生を継続することは好ましくないものであり、安楽死などによって命を絶つ方が良いという判断が正しいということもありうるということに異論はないだろう。この場合、もちろん死後の存在といった形而上学的存在が仮定されているわけではない。存在を得ることについても同様である。本人にとって自身の存在自体が好ましいものではない場合、特定の経験的状態と比較することなく(苦痛を伴う存在を与えるという行為が、本人にとって生じるべきではなかったという意味で)生殖は行われない方が良かったと言える。そうでないのなら、苦痛およびそれにネガティブな価値付けがなされるという脳の物理的現象を否定することになる。
そして、未だ存在を得ていない潜在的なものについても、我々は因果性という基本的な物理的性質と、帰納法やシミュレーションといった一般的な推論の方法によって、同様の判断をすることができる。すなわち、新たな誰かに存在を与えた場合(それがどんな人間になるにしても)、本人の観点からみて存在を得たことは好ましいものではなく、したがった存在を得ないほうが良かったとみなせることになるのだから、その本人にとって生まれないほうが良い(ということになる)と事前に言うことにも論理的な障害はない。そして危害の定義を、行為が間違いである条件(P2)に代入すれば、対象が存在を得ていなくとも、行為が間違いであると事前に言うこともできる(この一般的な条件は、行為の時点での対象の存在の有無については言及しておらず、任意の対象について成り立つものであることに注意)。
ではなぜ、この非比較的な危害の定義による見方が一般的な解決であるという合意が得られていないのか。その理由の一つは、ある行為の結果が本人にとって好ましくない場合であっても、その行為を行わなかった場合よりましであるという場合が考えられるからだ。例えば交通事故で爆発寸前の車の下敷きになっている人を救うために、その人の足を切断するなどの場合である。事故の被害者からすれば、結果的に足を失うことは悪いことであるが、救出のためのその行為がなければ、足を失うよりもさらに深刻な被害を受けていたことが考えられる。これを解決するのがシフリンによる許容可能な危害の原理、あるいはシフリンの非対称性の議論(Shiffrin 1999)である(P1'、P2ともに行為が間違いであることの必要条件であって、十分条件ではないことに注意。シフリンの原理についてはA3.1.2参照)。これを考慮した場合、ハンサー型の定義(Hanser 1990)
(P1''): Pによるある行為がQにとって危害となるのは、Pがその行為を行わなかった場合よりも、より多くの不本意な苦痛をQが被ることになる場合である。がより的確になるかもしれない(ハンサーの定義はこれとは厳密には少し違う)。生殖のケースにおいては、この「より多く」という比較表現によって非存在との比較を想定する必要はない。生殖のケースにおいては「Qが存在を得たことでQは苦痛を経験している。Qが存在を得なければ、Qという存在がそれらの苦痛を経験することもなかった」という事実として解釈すればよい
これらの非比較的な定義への別の反対は、非同一性問題の古典的な例でみられるように、深刻な障害を持って生まれたが、その人生に生きる価値がないほどではない場合、その人にとって存在することが好ましくないとは言えないのではないか、という懸念によるものだ。しかし、この見かけ上の問題も容易に解消することができる。問題は、この懸念は「生きる価値がない」という言葉の持つ二つの意味を区別していないことにある。ベネターが指摘している通り「生きる価値がない人生」という言葉は、実際には「始める価値がない人生」という意味と「続ける価値がない人生」という二つの意味を持つ(Benatar 2006)。そして、この区別を認識すればその人生に続ける価値があっても、始める価値はなく、存在を得ること自体は本人にとって好ましくないことであると言うことができ、従って親の行為は間違っていると言うこともできる。
もう一つの理由は、ハンサー型の定義から最もよくわかるように、この立場からは、あらゆる生殖が間違いだという結論、すなわちアンチナタリズムが導かれることである。これはベネターらのアンチナタリズムの議論以前から、非同一性問題の解消の試みの中で幾度も独立に導かれてきた結論である。その際哲学者たちは、「言語道断(outrageous)である」(Zuradzki 2013)とか「バカげている(absurd)」(Boonin 2008)など、真剣に検討することなくその結論への嫌悪を顕わにしてきた。だがそれに対する有効な反論を与えられてはいない。
結局のところ、これまでいくつかの定義が提案されているが、最終的にどれが最も適切かを決めるのかは、いかに現象をうまく説明するかということである。サム・ハリスが述べているように、道徳的見解に不一致は見られても、一つ確実に言える客観的な道徳的事実がある。それは、誰にとっても可能な限り悲惨な状態は悪いということである(でなければ「悪い」という言葉は意味を持たなくなるし、他の状態と比較してそれよりも良い状態が存在することを認めないということは、現実に存在する物理的差異を無視することになる)(Harris 2011)。しかし、比較的な定義に固執する限り、上で挙げた環境政策やバイオテクノロジーのケースからわかるように、少なくとも次に生まれてくるすべてのものにとって可能な限り悲惨な状態や、極めてそれに近い状態を生み出すことも悪いことだと言えなくなる。よって比較的な定義のみでは、生殖を含めた一部のケースで現象を正しく説明することはできない。一方で、ある行為が危害あるいは間違いである必要条件の一つとして非比較的な定義を採用することによって、知覚ある存在のウェルビーイングに悪影響を与えるような帰結を導くことなく、それらの問題を解消することができる。
改めて、比較的なperson-affecting viewに固執することは、ここで挙げた例だけでなく他にも数々の悲惨な帰結を導く。また非同一性問題の解消という点のみを考えれば、他にもいくつかのアプローチが存在する。これらを含め、非同一性問題一般については『非同一性問題について:危害の定義とアンチナタリズム』を参照。
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Q3.8 苦しみには様々な具体的な原因があるから、生み出すことそのものが危害とは言えないのでは?
▼ Answer
第二に、例え危害の直接的な原因ではなくとも、生殖という行為を行ったものに生きる上で被る危害の責任を帰すことは合理的であるということ。これは、例えば小さな子供を一人で夜道を歩かせて何らかの犯罪の被害にあった場合や、危険が予測できる場所に強制的に誰かを送り込み、実際にそのものが被害を被った場合などを考えれば理解できるだろう。
世の中には、事故、病、犯罪、自然災害など様々な危険が至る所に潜んでいるということは誰もが認識していることであり、生きていくうえで様々な苦難に直面しなければならないこともわかっていることだ。事前に大きな危険のリスクや保証された苦痛があることを認識しておきながら、実際に生じた危害の責任を負わないで済むという主張が、生殖以外の事柄に関して主張されることはまずないだろう。
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Q3.9 生殖しなければ絶滅してしまうのでは?
▼ Answer
種の絶滅が個々人の利害や権利に背くことはなくとも、種そのものにもやはり何らかの価値を与えるべきだ、という議論もありうるだろう。それに対しジェラルド・ハリソンとジュリア・タナーはこう述べている:
…しかし、もし種それ自体に価値を持つことを許したとしても、それは総合的に見て人類が絶滅することが良いと考える一層強い理由になる。
世界は現在、完新世の大絶滅を経験している。これは既知の地球の歴史上で、最も速い大量絶滅である。そしてそれは加速している。過去50年間で絶滅のレートが急上昇した。今では、一世紀毎に14万から200万の種が絶滅すると見積もられている。これは一日4から54種のペースである。それが主に人類の影響であるというのが科学的なコンセンサスである。我々がその原因なのだ。もし種それ自体に価値があり、種の保存について真剣に考えているのなら、人類種の終焉は歓迎されるべきことであるように思われる(Harrison and Tanner 2011)。
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Q3.10 子供をつくることは自然なことではないか?
▼ Answer
あるいは関連するものとして『ビーガンFAQ―人間も自然の一部だから、その行いをやめさせようとするのは間違いでは?』を参照。
いくつか挙げられいている主要な問題点を取り上げると:
1. 群淘汰は曖昧な概念で、遺伝子レベルの淘汰に比べてはるかに整然さを欠いている。
2. これまで血縁淘汰と異なる結果を示すような群淘汰のモデルを構築できていない。 3. 個体のほうが集団よりはるかに速く自己複製するため、利他的な集団の伝播は利己的な個体によって阻まれる。
4. 群淘汰が理論的に可能であっても、血縁淘汰で説明できず、群淘汰に頼らなければ説明できないような適応の例はなく、結果的にモデルとしてより有用な遺伝子中心あるいは個体中心な見方と等価であるため、群淘汰理論は必要ない。
などになる。
Q3.11 仮に地球の生命がすべて絶滅しても、また新たに生じる可能性があるのでは?/別の惑星にも有感生物が存在するのでは?
▼ Answer
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Q3.12 アンチナタリズムを他人にまで押し付けるべきではないのでは?
▼ Answer
「押しつけ」とは、同意も得ていない誰かに一方的に苦痛を強制することなどを指すのであって、それをやめるべきという考えや、その考えを持って誰かを「説得」することは押しつけではない。他人を巻き込むな、というコメントもしばしば見かけるが、それを承認するかもわからない誰かに、同意なく一生分の苦しみと死を強制する生殖こそ、他人を巻き込んだ利己的な行為である。
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4. 関連する事柄/その他
Q4.1 中絶についてはどう考えるの?
▼ Answer
しかし、ベネター自身そう断ったうえで示しているのは、pro-death viewと呼ばれる立場である。これは、胎児が道徳的な配慮を必要とする地位を獲得するのは、自己意識や知覚を獲得する時点(正確には連続的なプロセスであるため、期間)であり、それ以前には胎児は道徳的な意味でのpersonではないという認識に基づき、その段階で中絶しないことは、新たに知覚を持ち苦しみを経験する存在を生み出すことになるため間違っているという見方だ。ただし、これは中絶を強制すべきと言う意味では決してない。
神経系が未発達で、知覚も選好も自己意識も生じていない状態の胎児を、道徳的な意味でのpersonとして存在を得ていないとみなすことは、リベラル派や世俗主義者の間では一般に受け入れられている見解(Saad 2012)であり、妊娠初期における中絶の選択は女性の自由として認められるというpro-choiceの基底となっているものである。
pro-choiceから殺しの自由が導かれないのと同様に、pro-deathも、ある期間以降の中絶や、出産後の動物の殺しを推奨する立場とはならないため、エピクロス主義の議論と矛盾することはない。
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Q4.2 人間以外の動物についてはどう考えるの?
▼ Answer
また、厭世主義的アンチナタリズムを支持するものであっても、その動機は「人間が他の種に属するものを含め、他者に多大な悪影響を及ぼすため」であるのだから、その最たる例である動物産業を支持しながら、他者の生殖を非難することは道徳的に整合的とは言えない。
そもそもナタリズムあるいはプロナタリズムとは、生殖を肯定、推進するものであり、それに対する立場としてアンチナタリズムがある。ホモ・サピエンスの生殖に反対するのであれば、部分的にはアンチナタリスト的態度を取っていると言えるが、例えば、同時に毎年数百億もの動物を生み出し殺している畜産業を支持しているのであれば、総合的に見てプロナタリストに分類されるだろう。つまり、アンチナタリストを自称することも間違いではないが、より一般的な基準ではプロナタリスト分類されるということに異を唱えることも出来ない。
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References
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(この記事の訳はコチラから閲覧可能)
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