それでも、生まれてこない方が良かった ― 批判への返答 by デイヴィッド・ベネター


元論文:
Still Better Never to Have Been: A Reply to (More of) My Critics
David Benatar
Received: 2 July 2012 / Accepted: 8 July 2012 / Published online: 5 October 2012

はじめに

これは、デイヴィッド・ベネターが自身の著書『Better Never to Have Been(生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪)』(以下,BNtHB)に向けられた批判に対する反論を記した論文の要約と抜粋である。 和訳本には目を通していないため、異なる用語や表現を用いている個所が多々あると思うが、それについては自分で補ってほしい。


1. Introduction

この導入では、当然多くの反対が来ることは予想していたが、中にはまったく内容を読んでいないことを堂々と認めたうえでの反論や、どこが問題なのかを示さない批判もあったことを述べている。


2. Why It Is Better Never to Have Been


2節目では、彼の議論の基盤であり、主に批判の対象となっている基本的な非対称性の議論と、それに続く4つの非対称性:
(i)生殖の義務の非対称性
(ii)将来の利益の非対称性
(iii)回顧的な利益の非対称性
(iv)遠隔地の苦しみと幸福の不在の非対称性
そして人生のクオリティについての議論を改めて要約して示している。

これらについては『Better Never to Have Been』の2章および3章、あるいは当ブログ記事『ベネタリアン的非対称性の評価の仕方』を参照してもらいたい。


3. Impersonally Better or Better for a Person?

ここでは、ベネターが「非存在者の苦痛の不在は良い」というとき、具体的にどういった見方からの判断なのかを説明している。 すなわち、非人格的に良いのか、それとも誰かにとって良いと言っているのか、ということである。 彼は、彼への批判の一部は、ここをはっきり理解してないとし、次のように述べている:

私がすでに明確であってほしかったことをはっきりさせると、私は非人格的な評価を行っているわけではない。 そうではなく、存在を得ることは、存在を得るその人の利益になるのか、それとも存在を得ない方が良い(better)のか、ということを考慮しているのである。 私は、例えば彼が存在しない方が世界はより良い場所であるかどうかということではなく、存在を得ることがその人にとって良いか悪いか(better or worse)ということに関心を持っているのである(強調は原文のまま)。

一部の混同が起きる理由は、人々にとって、存在しないことが、存在しないものにとって良いという考えをメイクセンスするのが難しいからだろうとしたうえで、その例として、デイビット・ドゥグラツィア(David DeGrazia)による批判を引用する:

利害を持つのは実際の存在だけである。子供の将来の見通しがとても悪いためにそうすべきでない状況で子供に存在を与えてしまえば、実際に存在する子供という、誤った選択による犠牲者が存在することになる。しかし存在を与えないことによる、不確定で、可能性を持つにすぎない子供の利益を主張することは、このような議論からは導かれないし、私の判断ではほとんどメイクセンスしない。

これに対しベネターの返答が続く:

誰かが存在を得ていなければ、それによって恩恵を受ける実際の人はいないというのは明らかだ。 しかし、その言い回しがより複雑な考えの簡略と理解することで、ある人にとって存在しない方が良い(better)ということができる。 そのより複雑な考え方とは次のとおりである:我々は可能な2つの世界、すなわちある人が存在する世界と存在しない世界を比較している。 これらの可能な世界のどちらがより良い(better)かを判断できる1つ方法は、一方の(そして唯一の)世界に存在する人の利益を参照することだ。 明らかにそれらの利益は、その人が存在する方の可能な世界にのみ存在する。 しかし、これは我々の判断や、彼が存在する可能な世界においての人物の利益に照らし合わせてそれを行うことを排除するものではない [see Benatar 2006, p. 31 (and p. 4)]。


4. Criticisms of the Basic Asymmetry

続いて取り上げられるのが、ベネターによる基本的な非対称性に対する批判である。 最初に取り上げられるのが、苦の不在が良い(good)のと同じように、快の不在も悪くはない(not bad)ではなく、悪い(bad)とすることにより、対称性を取り戻せるのではないか、という非対称性を直接否定する議論である。

これに対しベネターは、確かにこれは論理的には可能かもしれないが、彼の主張は論理的に可能かどうかということではなく、価値論的な主張であると反論する。 つまり、論理的にはそう設定することはできても、例えば、そうすることで彼が挙げた4つの非対称性における判断を下すことができなくなるため、我々はそうすべきでない、ということである。

別の一般的な批判は、ベネターの基本的な非対称性を退けることで、残りの非対称性も退けられる、という議論を否定する間接的なものである。 そのために、彼らはベネターの基本的な非対称性に頼ることなく、他の対称性が説明できることを議論する。 しかし、彼らの説明はベネターのものとは違い、全てではなく一部の非対称性しか説明できていなかったり、満足な説明になっておらず、一つの非対称性ですべてを説明するベネターの基本的な非対称性の代替とはならない。

以下、その代替の説明として提出されたものと、それへの反論を具体的に見る。


4.1 Elizabeth Harman

この節で取り扱われるエリザベス・ハーマンの説明は、ベネターがすでに著書で議論している生殖に関する積極的義務と消極的義務の議論に関するもので、それに対する反論もすでに記されているため、省略する(『ベネタリアン的非対称性の評価の仕方』II-2節参照)。


4.2 Chris Kaposy

クリス・カポジーは、苦痛の不在の価値と、苦痛を回避することの価値を区別し、前者を良い(good)とすることなく、後者の義務を持ちえると議論する。

例として彼は、他者を監禁して食べ物を与えず空腹状態にすることは間違いだが、通常我々が空腹を感じていない状態というのは、良い状態というよりは、中立的状態であると主張する。

これに対しベネターは、カポジーは苦が存在しないことの経験的質と、価値論的な判断での価値の区別ができていないと指摘する。 つまり、空腹でないことは経験的には良くも悪くも感じられないが、価値論的には、苦痛を感じないことは(比較的に)良い(good)。 苦痛は悪く(bad)、それがないことは良い(good)と言える。

続く将来的利益、回顧的利益の非対称性に関するカポジーの議論は、苦しみの不在が良いという評価は、我々がそれを鮮やかに想像することができるものであるから生じるものである一方で、遠隔地の苦の不在については、我々は考えることがない、あるいは考えたとしても、良いとも悪いとも判断せず無関心でいる、というものだ。

これに対しベネターは、遠隔地の苦の不在について人々が考えなかったとしても、もしそれを考えた場合どう判断するか、あるいは判断すべきか、ということには無関係であるため、適切でないと退ける。 また、その苦を回避することが不可能であるために無関心であったとしても、苦の存在が悪であることそれ自体は誰も否定しないため、この場合も彼の主張は誤りであると結論付ける。

最後に議論するのは、回顧的非対称性(iii)と遠隔地の非対称性(iv)である。 カポジーは、苦しむ子供や異国の住民の存在を気の毒に思うことは「明らかに実在する苦しみの例であり」それゆえに「存在しないものの苦の不在の価値の例ではない」と主張する。これに対してベネターは:

これはとても奇妙な議論である。基本的非対称性は、苦痛の存在と不在および快の存在と不在の間のものである。 よって、関係するのは苦痛の不在だけでなく実在する苦痛の存在もである。 (iii)と(iv)の非対称性は、実在する苦痛と快の不在の異なる評価を示している。 これらは、基本的非対称性にとって関係するものである。 なぜならば、その非対称性を退ける一つの可能な方法は、快の不在は悪であるという、実在の痛みの判断と対称的な判断を主張することであるためである。 (iii)と(iv)の非対称的判断はともに、実在の苦と快の不在についてのものと見れるため、基本的非対称性を支持する。

と返す。


4.3 David DeGrazia

ドゥグラツィアも4つの非対称性すべてについて代替の説明を与えようとする一人である。 彼が一つ目の生殖の義務の非対称性について与える説明は、ジェフ・マクマハン(Jeff McMahan)による、この非対称性は基本的(fundamental)なものであり、これ以上の説明は持たない、という主張だ。

これに対しベネターは、確かにそれ以上深い説明の与えられない基本的(fundamental)な主張というものは存在するだろうが、苦しむ人を生み出さない義務はあるが、幸福な人を生み出す義務はないということには、さらなる説明が与えられるものだろうと述べる。

この点をおそらく認識しているドゥグラツィアは、さらに別の代替として「利益を与えるよりも、害をなさないことにより強い義務がある」 と主張するが、これはエリザベス・ハーマンのものと同様であり、ベネターがすでに反論となる説明を与えているものである。

将来的な利益についての非対称性については、「存在しないことは害であるということを...否定したとしても...良い見通しを持って生まれることは利益であると合理的に言うことができるのではないか。 ...これが正しければ、その子供自身のために子供を作ることができる」とドゥグラツィアは主張し、説明を与えるのではなく、非対称性の存在を否定しようとしている。

これに対しベネターは:

この議論の最初の問題は、結論が前提から導かれていないことである。 ある人が存在を得たことで、その利益がその人に存在を与える理由であると予測的に考えていなかった場合でも、利益を得たと考えることはできる。 なぜなら、もしその利益を与えられなくとも、誰も害されない、あるいは利益を失うことすらないためである。 当然、そこで言われる利益を与えるまで、与える対象となるものは存在しない。

ここで、苦しむ子供についても対称的なことが言えるのではないか、と主張されるかもしれない。 このような子供に存在を与えることを回避したら、それによって利益を受けるものがいなくなる、と。 これに対する返答として、利益を授けるより、害を避けるより強い道徳的義務が存在するという主張に訴えることが出来るかもしれない。 ドゥグラツィア教授はこれが前述の非対称性を説明できるかもしれないと考えているのだが、実際にそうであるかは別として、危害を避けるより強い義務と、それによるより強い道徳的理由が存在するという主張が正しいと仮定してみよう。 すると、利益を授けるよりも、(それによって利益を受けるものがいなくとも)危害を避けることに対するより強い義務と、したがってより強い道徳的理由が存在することになる。

おそらくこれには、(それらの人々の利益のみを考慮したとき)幸福な人々に存在を与えない理由がないということにはならず、単により弱い理由しかないということになるだけだ、という反論があるだろう。 しかし、存在を得るものにとっての主張されている利益が子供を作る理由を与えると考えるなら、少なくともある場合には、子供を作る義務を持つことになる。 子供を作ることが、他のことを考慮しても障害にならない場合などがそうである。 言い換えると、将来の利益の非対称性を却下することは、その子が幸福な人生を送るだろうからという理由で子供を作る義務を持つということは決してないという広く抱かれている信念と衝突することになる。

と返答している。

ドゥグラツィアは(iii)および(iv)の非対称性は認めるものの、ベネターの基本的非対称性がなくともそれらは説明できると主張する。 彼が基本的非対称性の代わりとしてその2つの非対称性の説明するのは、害や利益を受けるものが存在するかどうかということであるという。

つまり、(iii)についても(iv)についても、苦しんでいるものを悲しく思うのは彼らが存在しているからであり、幸福なものが存在しないことを気の毒に思わないのは、それらが存在していないからだという主張である。

ベネターはこの議論を「フライパンから火の中に飛び込んでいるようなものだ」と表現する。 なぜなら、これによりベネターの基本的非対称性を退けられたとしても、利益を与えるより害を避けることにより強い義務が存在するという見方と組み合わせれば、この議論は結局アンチナタリズムを導くことになるためである。

これに対しては、存在することの利益が害を上回るなら、存在することは利益とみなせ、存在を与えることは必ずしも害とはならない、という反論があるかもしれないが、これはベネターがBNtHBでも引き合いに出しているシーナ・シフリン(Seana Shiffrin)の主張と対峙することになる。

すなわち、同意の得られない相手に対し、本人へのより深刻な害を避けるために、それよりも小さな害を与えることは許容可能となる一方で、本人がより多くの利益を得るためとはいえ、同意なく害を与えることは許容されない。


4.4 Tim Bayne

ティム・バインも4つの非対称性すべてについて代替の説明を与えようとする。 彼は、良い経験、悪い経験の間の非対称性ではなく、良い人生と悪い人生の間の非対称性を提案するが、ベネターは、これは説明として機能せず、半分のケースでは言い換えをしているにすぎないと退ける。

例えば生殖の義務の非対称性についてバインは、惨めな人生を生み出さない義務はあるが、良い人生を生み出す義務はない、と述べるが、これはもともとの生殖の義務の非対称性と同じことを述べているに過ぎない。 彼は回顧的な非対称性についても同じことをしている。

別の対称性の説明については、バインの説明には奇妙なことが起こっている。彼は予測的な利益の非対称性に関しては

潜在的な子供の全体的な利害やウェルビーイングを考慮して、存在を与えることをやめることは奇妙だとは思わない。 …しかし、存在を与える理由として、潜在的な子供の期待される喜びを引き合いに出すという構えもなく、存在を与えない理由として、予期される苦痛を引き合いに出すのは奇妙に思える

というように、非対称性を説明するどころか、それを退けようとしているように思える。 遠隔地の苦しみについては

我々は、その生活が死んでしまった方が良いと思うほどの苦しみで特徴づけられている異国の地の住人たちについて悲しく思うが、その生活が死んでしまった方が良いと思うほどのものではない異国の住人たちについては、喜ばしく思う、あるいは少なくとも悲しくは思わない。

と述べているが、これに対しベネターは

ここでの問題は、バイン博士は非対称性について全く説明していないことである。 …彼は幸福な人々がいないことについて我々が悲しく思わないということについて何も述べていない。

と指摘する。


4.5 Ben Bradley

ブラッドリーは、ベネターの基本的非対称性は、より望ましさ(preferability)あるいはより良さ(betterness)の論理を破たんさせると強く主張する。 ベネターによる、Fig.1の(2)は(4)に対してアドバンテージを持たないという主張は、 現存する2つのより良さ(betterness)の説明と相容れないというのだ。

アルバート・ブローガン(Albert Brogan)とG・H・フォン・ウリクト(G. H. von Wright)の見方では「pは、~pよりも良い(betterである)場合に限り、良い(goodである)」と言える(~は否定を意味している)。

またロデリック・チザム(Roderick Chisholm)とアーネスト・ソーサ(Ernest Sosa)はこれの代わりに「ある状態が、何らかの中立的な状態と比べて良いもの(better)であるとき、良い(goodである)と言える」を良い(good)の説明とする。

(2)が(4)よりも良いと言えないという主張は、これらのどちらの説明とも相容れないというのである。 これに対しベネターは2つの反論を行う。

1つ目は、便宜上実際にこれらの説明と基本的非対称性は相容れないと認めたうえで進めたとしても、基本的非対称性が誤りであることにはならないというものだ。

その理由は、この非整合性は、非同一性問題(non-identity problem)が生じる原因と同様に、これらのより良さ(betterness)の説明が存在と非存在を比較するような通常とは異なるケースを想定していないために生じるものであるという。 よって、通常とは異なるケースの説明ができないのなら、それらの説明は退けられるべきであると言う。

しかしベネターは、2つ目の反論として、説明それ自体の持つ両義性を指摘する。


まずブローガン-フォン・ウリクトの見方について考える。 Fig.2のようにダイアグラムを拡張した場合、ブローガン-フォン・ウリクトの見方でいう~pとは何に対応するのだろうか。可能性としては

(a)~pは(6)
(b)~pは(4)
(c)~pは(6)かつ~pは(4)
の3つが考えられる。

もし(a)がpの否定として適切な選択であれば、ベネターの基本的非対称性と両立する。 しかし、(4)も同様に「快の不在」であるため、(c)も適切な選択であるという反論がありうるだろう。 これに対しベネターは:

しかしこれは、重大な事実を見過ごしている。 すなわち、(2)の否定には両義性があるということであり、私の見方では、その可能な否定の意味のうち一方のみが適切なものとなる。

その両義性を認識するために、外部否定(external negation)と内部否定(internal negation)の違いについて考えてみる。 (2)が述べているのは「快を経験するXという人物が存在する」ということであり、これの外部否定は「快を経験するXという人物が存在するという事実は成立していない」というものだ。 しかしこの否定は「快を経験していないXという人物が存在する」―すなわち内部否定である(6)と―「Xは存在せず、したがって快を経験していない」―すなわち(4)―の間の両義性がある。 しかし、これら両方が(2)の価値論的評価にとって適切な否定とはならない。 (2)は(ある時点に)存在するある人物の快の存在である。 それの適切な否定は、私が議論してきたように、(ある時点で)存在する人物の快の不在である(脚注26)。

脚注26:そして(3)の適切な否定は(1)であるため、(3)を良い(good)と判断することもブローガン-フォン・ウリクトの見方と整合する。

ブラッドリー教授は同意しないかもしれないが、だからと言ってそれは、私の見方が支離滅裂であることも、「より望ましさ(preferability)あるいはより良さ(betterness)の論理を破たんさせる」ということも意味しない。

続いてチザム-ソーサの見方(「ある状態が、何らかの中立的な状態と比べて良いもの(better)であるとき、良い(goodである)と言える」)が考慮される。

この見方では、(2)もまた良い(good)と判断される。 なぜならそれは(6)よりも良いからである。そして(3)は(1)よりも良い(better)ため良い(good)と判断される。 さて、(6)と(1)はどちらも中立(indifferent)どころか悪い(bad)である。 しかしこれは問題にならない。 悪い状態よりもマシで、それ自体が単により悪くはないとか、中立な状態であるとかではないような状態はすべて、中立的な状態よりも必ずマシな状態となる。 (2)は全く悪くはない。 それは中立的な状態よりもマシでもある―存在する人の快は単に中立的な状態ではない―ため、良い(good)になる。 私はシナリオBでの、苦痛の不在は悪いものでも中立なものでもなく、シナリオAでの苦痛の存在より良い(better)であると議論してきた。 したがって、それも良い(good)になる。改めて、ブラッドリー教授は同意しないかもしれないが、だからと言ってそれは、私の見方が支離滅裂であることも、「より望ましさ(preferability)あるいはより良さ(betterness)の論理を破たんさせる」ということも意味しない。

ブラッドリーは、ベネターが存在する人物の快の不在と、存在しない人物の快の不在の区別を指摘する可能性も触れているが、そのような反論を退けている。 その理由についてベネターは、シナリオBでの快の不在が悪くない(not bad)とベネターが判断している理由は「その快の不在が誰の状態でもないこと」であるとブラッドリーが誤解しているためだと指摘する:

これは理由の半分しか捉えていない。 快の不在が、それを失う人がいない場合、悪くない(not bad)となる理由は:

(a)誰もいない
(b)(快を)失うものが
非対称性は、(a)誰か(somebody)と誰でもない(nobody)かの間、そして(b)苦痛か快楽かの間を横切っている。


4.6 Campbell Brown

ブラウンも、より良さの観点からベネターに異論を唱える。

彼は、私の見方は「2つの原理の結合として表せる」という主張で始める:

(P1)ある人物が2つの世界の両方に存在していたとしたとき、どちらの世界が彼女にとってより良いかは、それらの世界で経験する快と苦に依る。 他のことが等価であれば、1つの世界でより多くの快を経験するほど、それは彼女にとって良く、より多くの苦を経験するほど、より悪くなる。

(P2)2つの世界のうち、せいぜい一方にのみ存在する場合、彼女にとってどちらの世界の方がより良いかは、それらの世界で彼女が経験する苦のみに依る。 より多くの苦を経験するほど、彼女にとってより悪くなる。

そして彼は、次のことを考えるように提案する

3つの世界A、BそしてCと、ジェミマという人物がいるとする:

Aには、ジェミマは存在しない。
Bには、ジェミマは存在するが、快も苦も経験しない。
そしてCには、ジェミマは存在し、快のみを経験する。

そして彼は、「(P2)に従えば、AとBはジェミマにとって等しく良いことになる。 AとCも同様である。しかし、(P1)より、CはジェミマにとってBより良いことになる」。 彼はこれを「単純に非整合的である」と書いている。

これ以上彼の議論は追わない。なぜなら、 私の見方に関する宣言の中で、初っ端から間違っているからである。 これは、(P2)が私の見方に含まれないためである。 ...私は「快の不在は、それを欠乏するものがいない限り悪くない」と主張してきた。 これは、誰かを欠乏させるときは快の不在は悪いという意味を含んでいる。 これは直接ブラウン博士の世界Bに適用される...(Fig.3)。

ブラウン博士の世界AとBを考えてみる...この具体的な比較において、苦痛は意味を成さなくなる。 どちらの世界にも存在せず、これらの不在の適切な評価は同じだからである。 ...世界Aでの快の不在は悪く、世界Bでは悪くない。よって世界Aはジェミマにとってより悪い(※)。

※訳注:ここで、ブラウンの言う世界Aと世界Bは、Fig.3および、ここでのベネターの議論では世界Bと世界Aとなり、名称が逆転している。正しくまとめると ブラウンの主張は
・(P2)より、A(ジェミマが存在しない世界)=B(ジェミマは存在するが、快も苦も経験しない世界)、およびA(ジェミマが存在しない世界)=C(ジェミマは存在し、快のみを経験する世界)
・(P1)より、C>Bであるが、A=BかつA=Cという上の推論と矛盾する。

それに対しベネターは、A(快の不在がnot bad)>B(快の不在がbad)であるからA=C>Bとなり、論理的に整合する、と説明している。



ブラウン博士は私の見方が非整合的であると主張したが、この結論に至らせた彼の議論は、私の見方を誤って解釈したことに依っている。 誤解しなければよかったのに(It would have better never to have misconstrued)。


4.7 Further Thoughts About the Basic Asymmetry

批評家たちは、基本的非対称性を支持するものは第二章での直接の議論からだけではなく、生まれることは常に害であるという議論が、新たな付加的な問題を生じさせることなく非同一性問題を解決できると示した、第六章の人口についての議論からも来ることに気づいていないと述べたうえで、それについて唯一言及していたというソール・スミランスキー(Saul Smilansky)の文章を引用する:

「絶対的絶滅推進派の見方が、デレク・パーフィット(Derek Parfit)の人口問題の一部に対処する助けになるという理由で著しく許容可能なものになるという...考えは、子供を亡くしたばかりで悲観に暮れている親を、少なくともトイレに並ぶ列の人数が減るよ、と言って慰められるという考えと同じくらい魅力的に思える」

それに対してベネターは

私は誰も慰めようとはしていない。 私が議論したのは、基本的非対称性は、広く受け入れられている他の対称性の最良の説明になるということだ。 私の批評家たちは、他の非対称性は他の方法で説明できると言うことで、その基本的非対称性に抗う方法を見つけ出そうと試みてきた。 私にはできるとは思わないが、私が正しかろうと正しくなかろうと、その基本的非対称性が、他では対処できない人口に関する道徳的問題を解決することができると論じることは出来る。 2つの仮説があり、一方は問題を解決し、もう一方はそれらの問題を生じさせるとしたら、明らかに問題を解決する方の仮説に強みがある。 それがその仮説を選好する1つの理由である。 対照的に、ある仮説が人々を逆上させるということは、その仮説を退ける理由にはならない。 地動説は、人類の自惚れを粉砕することで多くの人々を逆上させたが、それを退ける理由にはならなかった。 私には、人類の他の自惚れ―人類の存続の大きな重要性という自惚れ―を粉砕する道徳的仮説が、そのような自惚れを抱く人々を逆上させるからということで却下されなければならない理由があるとは思わない。

と記す。


5 What Is the Quality of Human Life?

この節で議論されるのは、ベネターが本書の第三章で議論した人生のクオリティの評価についてである。 ここでベネターが注意しているのは、多くの批判者が、ベネターの生まれることは常に害であるという主張は、非対称性の議論に依っていると考えているようだが、そうではないということだ。

ここでは主にドゥグラツィアの議論が取り上げられる。 まずヘドニズム(快楽主義)的な見方についてドゥグラツィアは、人が人生のクオリティを過大評価しているかもしれないことは認めるが、ウェルビーイングを人生全体での満足として扱うことを提案する。 そして「人々は多かれ少なかれ自分の人生に満足しているため、このバージョンのヘドニズムを受け入れることで、(ベネターのものよりも)はるかに楽観的な人生のクオリティの評価を支持することができる」と結論づける。

しかしベネターはこれを、よりもっともらしいバージョンのヘドニズムとしても、人生のクオリティのもっともらしい計算としても間違っていると退ける。 その説明として、ドゥグラツィアの主張が示唆する3つの状況を挙げる。

1つ目は、過去の人生のクオリティの判断を忘れてしまった人の状況である。 もし人生全体の満足度を低いものと判断していたものが、後になってその判断を完全に忘れてしまった場合、あるいはそれがどれだけ悪いものだったかを過小に評価し、その当時感じていたよりもより良いものだと評価した場合、それをドゥグラツィアの論理で評価するのは奇妙な印象を受ける。

これに対して、人生のクオリティは部分的な評価ではない、という反論があるだろうが、それについてもベネターはこう述べる:

人生の大部分を先に残しながら、どうして彼らは人生全体の満足度を判断できるというのだろうか? 多くの人生の最も悪い部分は、最後に待っているものだからである。 自分の人生に全体として満足しているというものは、死が近づくまで、評価における最も困難なテストに直面していないままなのである。

次に挙げるのが、2人の人間が同等の満足度を報告しながら、明らかに一方の方が苦痛や欲求不満や失望の多い人生である場合である。 ドゥグラツィアの解釈を受け入れる限り、我々はそれでもこの2つの人生のクオリティは同等と言わざるを得なくなる。

3つ目の状況は、ある人の人生が上手くいっておらず、ネガティブな感覚経験に自身も気づいている場合についてである。 この人の人生の全体の満足度を向上させるには、2つの方法がある。1つはその不満足な原因を取り除くことであり、もう1つは、自己欺瞞の傾向を強めるなどして、満足度の評価にあたって、ネガティブな経験に鈍感になるようにすることである。 ドゥグラツィアの解釈を受け入れる限り、この2つの選択は等価であると言わざるを得なくなる。

次に議論するのが、欲求充足説の基準についてである。ドゥグラツィアは、人生には満足された欲求より満足されない欲求の方がはるかに多いというベネターの主張を否定する。 この点についても本来BNtHBの方で議論されているもののであるが、ベネターは改めて概要を記す:

欲求は満たされているか、満たされてないかどちらかである。 我々は通常、得られるより多くを望むため、決して満たされない欲求の方が多い。 たとえば、何十億という人々が、より若く、より知的で、より良い見た目になりたいと思っているし、より多くの(そしてより良い見た目の相手と)セックスしたいと思っている。 そして、より良い仕事をし、より成功し、より豊かになり、より多くの余暇を過ごし、より病気にかかりにくくなり、より長く生きたいと思っている。 また、欲求が満たされる場合も、それらがすぐに満たされることはめったになく、しばしば満たされるまでに非常に長い時間がかかる。 したがって、欲求はそれらが生じ、最終的に満たされる時までの間、満たされない状態が続くのである。 欲求は最終的に満たされると、それが持続するかしないかであるが、後者がより一般的である。 例え満足が持続しても、通常また新たな欲求が現れる。 したがって、一般的なパターンとしては、比較的短い満足された期間を点々と挟んだ、欲求不満な状態なのである。 したがって、我々が満足された状態よりも多くの時間を満足されないまま費やすと考える非常にもっともな理由があるのだ。

またベネターは続いて、我々の欲求は実現可能性に大きく制限されていることについても改めて説明する。 例として彼は、強制収容所に入れられた人々について想像するよう促す。 彼らは通常の衣食住などを求める代わりに、求められるものがその場の状況に大きく制限されることになる。 薄いスープに少しでも多くのジャガイモが欲しいという彼らのささやかな欲求が満足されたとしても、その人生が上手くいっているとは言えないだろう。 同様に、我々の持つ欲求も様々な制限の下で可能なものから選び出されたものである場合が多い。 よってベネターは、その欲求充足説は、制限された欲求の評価のみに限定されており、人生のクオリティの算出法として妥当でないという。

ドゥグラツィアが他に議論するのが、客観的リスト説に関するものだ。 彼は、人生のクオリティを評価する際に、「人間とはどういう生物であるかを考慮しなければならない」と主張する。 例えば若くて健康なまま数百年生きることは良いことかもしれないが、そのような人類として実現不能なものは、客観的に良いもの(objective goods)には含まれない。 そうでなければ、人生が現在のものよりはるかに悪く判断されてしまうからである。

これに対してベネターは:

これに対して主張されるかもしれないことは、これらの良さ(goods)は、人類には達成不能であり、これらの良さで特徴づけられる人生は、もはや人類の一生とは言えない。 したがって、人生のクオリティを判断しようとするなら、通常の人が達成可能な基準を用いなければならない、というものだ。 しかしこの返答は人類の生を崇めすぎている。なぜそうであるかを見るために、ホモ・インフォチュナタス(Homo infortunatus)とでも呼ばれるある空想の種を考えてみよう。 この種のメンバーの一生のクオリティは、ほとんどの人間より低いものである。 彼らの痛みや苦しみは多大だが、喜びがないわけではない。 この種のメンバーが貧しいクオリティの一生を送るという主張に対して、楽観主義者たちは、もし彼らの一生が著しく良いものであったら、彼らは単純にインフォチュナタスではなくなる、と言い返すかもしれない。 この返答は印象的なものにはならない。 (a)ある種のメンバーの一生がどれほど良いものか、ということと、(b)その種のメンバーであることで、どこまで良い一生が可能か、を問うことは異なる。 確かに、ホモ・インフォチュナタスのものより、はるかに良い一生を送るものは、もはやインフォチュナタスではないかもしれないが、それがそこまで悪いものではなくなるわけではない。 同様に、我々のものよりはるかに良い一生は、もはや人間の一生とは言えないかもしれないが、だからと言って人間の一生がそれより良い一生と比べて悪いものでなくなるわけではない。

と返答する。


6 Suicide and Speciecide

この節では、ベネターの議論は自殺や種全体の虐殺を支持するものだという批判を取り上げている。 実際ベネターはこれらの議論のほとんどは本書の方で済ませているが、パッカー(Packer)の議論を一つ例として取り上げる:

それは、絶滅は「将来の無限の数の潜在的人間を回避し、したがって未来の無限の潜在的苦痛を防ぐことになる」(Packer 2011, p. 228)という主張であり、それにより絶滅の過程でどんな苦しみが生じても、回避された苦しみはそれを上回る重大さを持つと結論付ける。というものだ。

ベネターはこの議論に含まれる3つの問題点を挙げる。

ここでの問題の1つは、殺害によって絶滅をもたらすことは無限の量の未来の苦しみを防ぐことにはならないことである。 これは、我々がそれを目指すか否かに関わらず、いずれ絶滅は起きるためである。 よって種虐殺で回避し得るのは多大な苦しみではあっても無限の苦しみではない。 これは、Packer氏の主張を成立させるには十分な量の害かも知れないが、彼はそれを正しく主張する必要がある。

第2に、彼の議論は種虐殺はまず失敗するだろうことを認識し損ねている。 彼が、「自発的絶滅運動の成功する確率は驚くほど小さいだろう」と指摘していながら、種虐殺が上手くいく可能性の驚くほどの小ささについては完全に沈黙しているのは皮肉なことだ。

そして3つ目に彼が指摘するのが

この議論は、何であれ、苦しみの総量を最小化することをしないといけない、ということを前提にしている。 …そのように考えることもできるが、私のアンチナタリストとしての見方に、そう考えることを要求するものは何もない。


7 Conclusion

最後はベネターの言葉をそのまま引用して結びとする:

私は、私の議論に真剣に取り組んでくれた批評家たちに感謝している。 なにより、他の多くの批評家たちは、その礼儀を示してくれないためである。 独善的で、真剣に考慮もしていない、そしてしばしば罵り口調での反応の中でも、多くの場合、その議論ではなく結論を攻撃するものが多い。 私の議論を実際に考慮し、そして他の議論をもって答えてもらえるのは嬉しいことである。 私はこの論文では、これらのより思慮深い異論であっても、私の主張に反論することはできないことを示した。 我々の哀れな種の生殖と永続へのコミットメントの根深さを考慮すれば、その見込みのないプロジェクトを遂行するための試みがまだあることを予測している。


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