投稿

3月, 2018の投稿を表示しています

同じ病、異なる症状―インターセクショナル・ビーガニズムという治療法

イメージ
同じ病、異なる症状 ―インターセクショナル・ビーガニズムという治療法― 近年、ビーガニズムの啓発運動が盛んな国々では、 インターセクショナル・ビーガニズム(Intersectional Veganism) という概念が関心を惹いている。種が異なるという理由で他者の利害を不当に扱う種差別だけではなく、セクシュアル・マイノリティへの差別、性別による差別、人種による差別、障害による差別、何らかの地位や階級による差別など、様々な対象を交差的に扱い、あらゆる形態の抑圧や差別の撤廃を訴えて行こうというものだ。 インターセクショナリティの背景と、ビーガニズムとの関係 元々インターセクショナリティ(Intersectionality)という概念は1980年代に法学者であり、黒人フェミニストであるキンバレー・クレンショー(Kimberlé Crenshaw)によって、社会正義運動に導入されたものである。そこには、当時のフェミニズム運動は白人に支配的なものであり、同時に市民権運動は男性によって支配的に行われていたという背景がある。この事実は、現在フェミニズムは「人間の女性」の地位についての運動であると、フェミニストを自称するものを含めた多くのものがナイーブに考えているが、かつてはそうですらなかったという意味も含んでいる(そして現在でもすべての人間女性に配慮が達しているとは言えないという意味で完全にそうなってはいないし、そもそも人間の女性に限定されるものではないという意味で、今後もそうではない)。 インターセクショナル・ビーガニズム団体であるCollective Freeによるアクション。日本語字幕が選択できます。ぜひご視聴を。 この概念が私たちに提示する明らかなメッセージは、すべての差別や抑圧の根は同じものであり、最終的に私たちがすべきことは、その根を取り除くことだということである。しかしビーガニズムがインターセクショナリティという枠組みを採用するのは当然のこととも言える。そもそもビーガニズムの定義 食品や衣服、その他いかなる目的のためであっても、動物に対するあらゆる搾取と残酷行為を、可能で実践できる限り排除する生き方  に、ヒトでない動物に対象を制限するということは含まれていない。ゲイリー・フランシオン(Gary L. Fra

心の哲学と苦しみ:快苦の非対称性と苦しみの支配性およびアンチナタリズム

イメージ
心の哲学と苦しみ ―快苦の非対称性と苦しみの支配性およびアンチナタリズム― これは、意識に関するエッセイ集『The Return of Consciousness. A New Science on Old Questions Publisher: Axess Publishing AB; 1st edition (2017)』にトーマス・メッツィンガー(Thomas Metzinger)が寄稿した章『Suffering(苦しみ)』の要約と抜粋である。 メッツィンガーは心の哲学や、それに関連した倫理学を専門とするドイツの哲学者である。サム・ハリス(Sam Harris)との対談でも語られているように、(あくまで思考実験としてであるが)知能的にも道徳的にも完全なAIはアンチナタリズムを生物にとって最良の選択と判断するという『 BAAN:人工知能によるアンチナタリズム 』と呼ばれるシナリオも提唱している。 このエッセイは、苦しみとは何かということから、なぜ苦しみが存在するのか、苦しみにはどんな特性があるのか、どうすれば苦しみを取り除くことができるのか、そしてなぜそれらを理解することが重要なことなのかということまで、包括的に扱われている。 彼の苦しみについての洞察の鋭さと表現の的確さには目を見張るものがあり、これが道徳的な最優先事項、あるいは唯一のミッションである苦しみの最小化と根絶の取り組みにおいて、必須な教科書的資料の一つとなることは間違いない。 本来の言い回しが若干堅苦しいこと、および訳が拙いことが原因で、理解しづらい箇所があるかもしれないことを考え、引用の際には、できるだけ平易な解説を伴うようにしたため、気軽に目を通してもらいたい。 注意事項: 元文献からの引用はインデントを変えず、文字の色を青色にして区別する。文字色が区別されない形式で閲覧している場合や、その他なんらかの理由で色の識別が困難な方は注意してほしい Suffering from The Return of Consciousness. A New Science on Old Questions Publisher: Axess Publishing AB; 1st edition (2017) Thomas Metzinger The c

カントによる親の義務の根拠付け―カントの義務論とアンチナタリズム

イメージ
カントによる親の義務の根拠付け ―カントの義務論とアンチナタリズム― これは、Heiko Pulsによる論文『Kant’s Justification of Parental Duties』の要約と抜粋である。 注意事項: 元論文内の引用を二重に引用する場合にややこしくなるため、元論文からの引用はインデントを変えず、文字の色を 青色 にして区別する。文字色が区別されない形式で閲覧している場合や、その他なんらかの理由で色の識別が困難な方は注意してほしい Kant’s Justification of Parental Duties Heiko Puls Kantian Review / Volume 21 / Issue 01 / March 2016, pp 53 -­ 75 DOI: 10.1017/S1369415415000308, Published online: 01 February 2016 Abstractはそのまま引用する: Abstract カントは彼の応用倫理学において、自分の子供を幸福にする親の義務を定式化した。私は、カントにとってこの義務は、親が自身のイニシアティブにおいて一人の人間を存在状態に持ち出したこと―そして、したがってその人の幸福への必要を生み出したこと―についての親の罪を埋め合わせるアドホックな義務であると議論する。私は、親の義務と人間の生殖に関するカントの考察は、概して倫理的に正当化されたアンチナタリズムを示唆するが、この見解はメタ倫理的理由から、彼の目的論からは排除されているということを議論する。 1. Introduction 先行研究では、カントは、親が子供をケアする義務を、その子供の同意を得ることなく生み出しているということを理由に根拠づけをしているが、そのアプローチ自体の根拠づけは行っていないと主張されている。 著者は、生殖に関する倫理についての考察から、カントはその根拠づけを行っているということをこれから議論すると述べる。 2. An Analysis of MM, 6: 280–1 in the Light of the Nachlass and Vorlesungsnachschriften カントは、「親は子供を幸福にする義

ベネタリアン的非対称性の評価の仕方

イメージ
ベネタリアン的非対称性の評価の仕方 公開日:2018年3月18日 Benatar (1997, 2006) が自身のアンチナタリズムの基底の一つとして提示する価値論的な基本的非対称性について、多くの誤解や混同が見られる。この非対称性はBenatar のアンチナタリズムにとって不可欠なものであり、これを退ければアンチナタリズムという結 論を回避できる、という考えがまず最初の誤解であるが、この非対称性を退けることに成功したと考えているものの多くも、実際はそもそも非対称性の意味を正しく理解してさえいない。よってこの記事では、その正しい理解を説明したうえで、それを退けることがいかに困難かを示すことを試みる。 こちらで公開していた記事の内容は、現在 コチラ のpdfに収録している。 エフィリズム/アンチナタリズムについてのさらなる議論は コチラ から 関連アカウント: Follow @antinatalcircle The Real Argument トップ へ keywords:消極的功利主義、義務論、アンチナタリズム、アンチナタリスト、反出生主義、反出生主義者、エフィリズム、エフィリスト、議論、論理、反論、倫理学、哲学、自殺、生まれてこない方が良かった、デイヴィッド・ベネター、

ベネターのアンチナタリズムとプロモータリズム~基本的非対称性は自殺を示唆するのか

イメージ
ベネターのアンチナタリズムとプロモータリズム ~基本的非対称性は自殺を示唆するのか~ デイヴィッド・ベネター(David Benatar)の 非対称性 に基づくアンチナタリズムへの批判的指摘として頻繁に行われるのは、ベネターの非対称性はアンチナタリズムだけでなく、 プロモータリズム(pro-mortalism) をも導くというものだ。 サム・ハリス(Sam Harris)もベネターと 議論 できる貴重な時間の多くをこの点に割くことで無駄にした。 だがこの主張は誤りである。 プロモータリズムとは、存在を続けるより自殺をする方が好ましいと考える立場を指す。ベネターの基本的非対称性がそのような立場に導くという推論はこうである: (1)存在はやめれば苦は不在になるため良い(good) (2) 存在をやめれば、快を欠如するものがいないため、悪くない(not bad) (3)よって、ベネターの基本的非対称性にあてはめれば、存在を続けるよりは、存在をやめる方が好ましい。 (2)の前提となっている、死んだ後は快を奪われるものが存在しないのだから、死そのものは誰からも何も奪わない、という見方は エピクロス主義的な見方 と呼ばれる。 だが、多くのものはこの見方を採用せず、何らかの意味で有感な存在者にとって死は何かを奪うものだと考えているだろう(つまり、存在をやめることで快が奪われることはbadであるという判断だ)。 そして、 ベネターの非対称性がエピクロス主義を示唆するということもない。 ベネターの非対称性がエピクロス主義を導くという認識は、そもそも彼の非対称性の主張を誤解していることから生じる。 この推論の誤りは、ベネターが基本的非対称性で功利主義を前提に据え、それを(生まれてない場合と生まれた場合の比較以外での)あらゆる場面で適用される価値判断基準と主張していると勝手に誤解していることから生じる。 べネターが非対称性の議論で行っているのは、彼自身明示的に注意しているように、快が+で苦が-で…と計算をして生の価値判断をしろ、ということではないし、快が善で苦が悪という価値基準を一般的なものとして採用しろ、ということでも決してない。これらは「始める価値のある生」と「続ける価値のある生」を区別して議論していることなどからも明らかな話だろう

苦しみに焦点を当てた倫理について

イメージ
苦しみに焦点を当てた倫理(Suffering-Focused Ethics)について 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?世間は常に燃え立っているのに。―ガウタマ・シッダールタ by Kei Singleton First published: 1 Mar. 2018; last major update: 11 Aug. 2018 Contents 1. SFE とは 2. NU とSFE 3. 戦略的理由からのSFE のプロモーション 脚注 References 1. SFEとは ブッディズム、ネガティブ功利主義(NU)、エフィリズム、そしてその他一部の倫理的アンチナタリズムなど、これらはすべて、 苦しみに焦点を当てた倫理(Suffering-Focused Ethics; SFE) というより大きなに分類に属しているとみなすことができる。これに属する立場を支持するものはみな、快と苦の間に価値論的非対称性があることを認めているものたちだ。 彼らは、より具体的な立場を支持している場合であっても、この名称を用いて自身の立場を表明し、プロモーションすることがある [1]。その一つの理由は、幅広い間口を用意することで、より多くの人が苦しみに焦点を当て、それに関する動きに同調しやすくなるということである。 2. NUとSFE ネガティブ功利主義とSFEの違いは何なのか、苦しみ(負の功利の一形態)に焦点を当てている時点で、功利主義ではないのか、という疑問も聞かれる。しかし、そもそも、サム・ハリス(Sam Harris)が述べているように 1 、道徳とは知覚ある存在のウェルビーイングに還元される客観的事実を扱うものであり、それへの影響を無視して道徳を語ることは意味を成さない: 価値についての問い、すなわち意味や道徳や人生におけるより大きな目標についての問いは、実際には意識を持つ存在のウェルビーイングに関する問いである。したがって、価値は科学的に理解可能な事実へと翻訳される [2]。 改めて、この主張は帰結主義的であり、功利主義的であるという指摘もある。そして、功利主義をはじめ、帰結主義には大きな問題がある。ネガティブ功利主義者の間でも、義務論との統合などにより、個体の基本的な権利を保障する枠組みの構築など