「生まれてよかった」は生殖を正当化しない―シフリンの原理と承認による反論

「生まれてよかった」は生殖を正当化しない

―シフリンの原理と承認による反論―



この記事では、Seana Shiffrinの論文『Wrongful Life, Procreative Responsibility, and the Significance of Harm』[1]および、Asheel Singhによる論文『Furthering the Case for Anti-natalism:Seana Shiffrin and the Limits of Permissible Harm』[2]の要約を中心とし、アンチナタリズムの議論の一つとなるShiffrinの非対称性について考察する。

注意事項: 元文献からの引用はインデントを変えず、文字の色を[1]についてはポンパドゥール、[2]については青色にして区別する。文字色が区別されない形式で閲覧している場合や、その他なんらかの理由で色の識別が困難な方は注意してほしい



Shiffrinが、現在シフリンの非対称性と呼ばれている生殖の道徳的問題を指摘する原理を提唱したのは、いわゆる「Wrongful life訴訟」に関連して書かれた論文『Wrongful Life, Procreative Responsibility, and the Significance of Harm』(1999)内であった。

Wrongful life訴訟とは、主に深刻な障害を持って生まれたものが、例えば親がそれを回避する手立て(中絶)をしなかったとか、あるいは医師がそのための十分な情報を親に提供しなかったなどとして起こす訴訟のことである。

しかしShiffrinは論文で、深刻な障害を持って生まれた場合や、親が無責任に子供を生み出した場合に限らず、生殖という行為そのものが道徳的に問題のある行為だと論じている。

Shiffrinの議論

まずShiffrinは、生まれた人の負荷についての責任を評価するのは、危機にある人を救おうとする人に、救出の際にもたらした害の責任を負わせるようなものであるというJoel Feinbergによる主張の問題を指摘する。彼の主張は、救助されることの利益を考えれば、その救助に伴う害の責任を負う必要はないのと同じように、生まれたことによる利益がその害を十分上回るなら、その害の責任を生み出したものが負う必要はない、というものだ。

これに対しShiffrinはこう述べる:
表面的なもっともらしさはあれど、この議論には害や利益とは何かということについて、その道徳的重要性について、そして害と利益の間にある対称性ということについての暗示的で疑わしい見方が含まれている。
彼女のより具体的な指摘は以下の通りだ:
救出された人が危害を被ってはいないという考えは、危害と利益の何らかの比較的(comparative)で対称的なモデルから導出されると考えがちである。すなわち、多くのものは危害と利益を、正と負の数のスケールのように、一つのスケールの両端を表すかのように考えている。
…このモデルには多くの問題がある。第一に、利益と危害の間にある深い非対称性について考慮することができておらず、それについて十分な説明をすることができない。例えば、利益を得そこねたことを、危害を被ることや危害から救われないことどちらと比較しても、はるかに深刻でないものとみなすことが多い。この非対称性を比較的なモデルで説明することは困難である。
彼女の批判はつまり、「非対称性」への考慮が欠けた「比較的モデル」に向けられている。そして、より優れた危害モデルをShiffrinは議論する。彼女の議論は以下の原理に書き直すことができる:

原理A(Shiffrinの許容可能な危害の原理):承諾なく対象者Aに危害を及ぼすことは、以下の条件が満たされる場合かつその場合に限り許容される:
a) その危害によってAを、これまで存在している危害、あるいは今後予期される危害から救うことが合理的に予測できる。 
b) 及ぼす危害が、回避しようとしている危害より小さいものである。

明らかに救助のケースはこの原理によって許容されるが、生殖はそうではない。

ただし、Shiffrin自身はアンチナタリズムを確定的に支持すると明言することは避けている:
私は、生殖は総合的に考慮して間違っていることだと主張しているのではない。それは常に許容不可能なものであるというわけではないとか、生殖は特殊なケースであると考えることは、承諾なく負荷を負わせる行為は道徳的に問題のあるというこれらの議論と矛盾しない。私が主張しようと意図したことは、生殖は著しい負荷を負わせる行為であるために、道徳的に問題を抱えた行為であり、それを負わすものは当然その害のある結果について責任を負う、ということである。

これについてSinghは
おそらく彼女は、アンチナタリズム的結論を示すことで、自身の議論がreductioとみなされること(※結果がばかげたものであるという理由で、議論そのものを退けられること)を恐れたのだろう。いずれにしても私は、回避可能な、承諾なく負荷を負わせる行為―特に生殖行為―は許容可能であるという見方は、Shiffrinの議論とは調和しないという見方を取る。

と述べる。

承認による反論

Shiffrinの原理に対して一般的に提示される反論は、Daviid DeGraziaらも行う承認による反論である。これは、生殖は本人の承諾なくこの世に生み出す行為ではあっても、生まれたものが生まれた良かったと思うだろうと考えるもっともな理由があるなら、それは許容されるという議論である。

まずSinghが指摘するのは、承諾(consent)と承認(endorsement)の基本的な違いである:
承認は仮定的承諾とも、後回しの承諾とも等価ではないということに注意することは重要である。承諾は、常に二人以上の個人や二つ以上の機関の間に、暗黙の合意や契約的関係を伴うという意味で、関係的なものである。承認はそれとは異なる。承認は純粋に個人の内的なものである。それが他者の行為についてのものであっても、本質的にそのものとの関係を含むものではない。他者の行為を、その行為や他の事柄を承認するかどうかに関わらず、承諾することは可能である。この区別は、脅迫的に「承諾」を得る場合には特に明らかだろう。

DeGraziaは、生まれたものが本気で生まれたことに喜びを感じているなら、それは生殖の承認を意味しており、その親は、そのものを害したとは言えないのではないか、と主張する。

ここでSinghは別の例を提示する。それは、友達の大きな昇進を祝うためにサプライズパーティを企画し、パーティ会場に誘導するために、車のカギを隠したり、演技をしてちょとした嘘をついたりするというケースである。

原理B:承諾なく対象者Aに些細な程度の危害を及ぼすことは、以下の条件が満たされる場合かつその場合に限り許容される:
a) Aはその後、欺かれてはいない状態で、その行為を承認するだろうと予測するもっともな理由がある。 
b) 危害を予測することはできるが、それを意図しているわけではない。

この原理Bのようなものに訴え、生殖を正当化しようとするものがいるが、Singhはそれは誤りであるということを以下で議論する。

承認による反論への返答

Singhは承認による反論に対し、四つの返答を与える。

1. 承認と喜びを等しいものとして良いのか?

一つ目は、そもそも喜びと承認は同じものではないため、原理Bを受け入れても生殖の擁護にはつながらない、という指摘である。それを明らかにするため、承認について以下の区別が明示される:

E1. 承認、感情的なもの:
「私は生まれて嬉しい。したがって(あるいは、「言い換えれば」)、私は私を生み出したことを承認する」

E2. 承認、理性的なもの:
「私は、総合的に考慮して、私の親は私を生み出したことを正当化されると考える。したがって私は、私を生み出したことを承認する」

そして彼はは、承認による反論を持ち出すものは基本的にE1を基準に用いていると指摘し
私たちは通常、大きな重要性を持つ事柄―特に他者に影響を及ぼすこと―に関しての判断については、それが完全に感情に起因する判断である場合、あるいは感情中心の判断であるというだけでも、それに満足しないだろう。
と述べる。つまり、他者に一方的に重大な影響を及ぼす事柄の道徳的な是非を、個人的に良かったと感じるからというように、単純に主観的な感情で決めてしまっていいというのは、生殖以外の場面ではあまり考えられないようなことだ、ということである。

これに対し、彼の主張する基準は現実の判断を比較しても厳しすぎるのではないかという反論が考えられる。

実際にE1が基準として用いられる例として、例えば幼い姪に誕生日プレゼントをあげる場合を考えてみる。彼女が喜びそうなものを調べ、彼女が実際に喜んでくれているかをうかがう。しかし、Singhはこのケースは反例にはならないという:
この贈り物のケースは、喜びとしての承認の見方にとっては期待に反するものとなる。私の姪が実際に喜んでいるように見えたとしても、彼女が「あなたの贈り物を承認します」とか「贈り物をするというあなたの行為を承認します」というのは奇妙だからである。

続いて、では多くの人がなぜ生殖のケースにこのE1を適用するのかが考察される:
ほとんどの人は、自分が生み出されたことをE1の意味で承認するように思える。私が思うに、ほとんどの人は哲学的な思案を―特に自身が生み出されたことについて―避けるという事実に関連するのではないかと思う。...理性的評価(E2)が私たちの道徳的基準であるべきだという私の主張を受け入れるなら、喜ばしさの一般性に関する三つ目の(Benatar的な)説明を仮定するのはもっともなことだろう。すなわち、人々は哲学的な思考を欠いているために、生まれたことを嬉しく思うと推測する。そして、そのような思考を欠いている場合、彼らは自分たちを生み出したことを、正しい意味で「承認」してはいない。ということである。

念のため書き加えておくが、ここで哲学的思考を欠いているというのは、何も学問として専門的に哲学的推察を行っていない、ということを言っているのではなく、客観的に生殖の道徳性を考慮して判断していない、ということを意味している。

そして
さらに言えば、E1を採用したとしても人々は彼らを生み出したことを明らかに承認していることにはならない。その理由は例えば、人々はしばしば生きていることについての喜びと、生まれたことについての喜びを混同していることである。

明確に述べれば、(議論のために承認によって生殖を正当化できると仮定するなら)原理Bが生殖を正当化するのに必要なのは、存在の要因となった行為についての承認であって、単にその人の人生の内容やクオリティについての承認ではないのである。

この点をわかりやすくするために、姪へのプレゼントのケースに戻って考える。例えば彼女が、プレゼントを送った行為が周りに良い人をアピールするためのものだったことなどを疑い始めた場合、例え彼女がプレゼントをもらったことを喜んだとしても、行為自体を承認しないということも考えられる。これと同様に、例え生まれたことを喜んだとしても、それは自分を生み出した行為を承認することとは別なのである。

さらに二つ、それらが別々であるケースを考える。一つ目は、これまでの人生経験を喜ばしく思っているが、なんらかの耐えられない出来事などが原因で、もう一度同じ人生を生きるかと言われたらそうは望まないようなケースであり、もう一つは、これまでの人生の過ぎ去り方を喜ばしく思うことと、人生が始まったことについての喜ぶことの違いが存在するということである。

まとめると
1. 人々は承認と喜びを混同している。E2が正しい基準であるとすれば、承認は生殖を正当化しない。
2. 人々は、生きていることの喜びと、生まれたことの喜びを混同している。

2. 承認は、欺きなしに可能なのか?

次に考慮されるのは、(議論のために)仮に承認と喜びが同一だとしても、喜びは欺き(delusion)なしに可能なのか、ということが検討される。BenatarやMetzingerらが議論しているように、私たちには多様な適応的メカニズムによって、生のクオリティを過度に評価する傾向があるからだ。

適応的なものとはいえ、個人的な評価はあてになるものだいう人もいるだろう。

これについてSinghは
しかし、Benatarian的主張に賛同する考えとして、私には、存在を得ることは適応的メカニズムに対して、私たちがどれだけ理性的であるかを測る究極のテストなのではないかと思える。

と述べている。また、Singhはアンチナタリズムは、多くの人々とって反直観的な考えで、かつそれを理由に不条理な拒絶を受けるという理由で、無神論とも似ていると考える。
アンチナタリズムは、全ての人々は過ちとして生み出され、曝されるべきではなかった深刻な危害に耐え忍ばなければならず、また(議論の余地はあれど)あらゆる害の内で最も深刻な害、すなわち死にも必ず直面しなければならないのだと述べる。そしてこの明らかに馬鹿げた誕生と死のサイクルは、何世紀にも渡り続けられてきた!しかし、無神論も同様に、宗教的迫害と暴力による愚行の被害にあってきた。これも同様に何世紀と続いてきて絶える兆候もない。多くの人々は、神を取り除くことは、人生は一切の意味を持つことをやめ、道徳は衰退するということを意味するのだと考えている。そのような人々にとって無神論は意味を成さない。一方で多くの無神論者にとって、無神論はほとんど、あるいは唯一の理性的見解であるし、何らかの形で倫理を破壊したり、人生を無意味にするものでもない。私の見方では、無神論は少なくとも、正当な理由を持って、学術社会におけるデフォルトの見解であると思われる。しかし依然として、より広い社会では明らかに少数派である。これについて、ほとんどの人々(学術的でない人々)が、物事についてより良い理解をしているからだと考えるのはナイーブだろう。対照的にほとんどの人々は、有神論的見方を筋の通らない理由で固持しようとする。同様に、概念的障害や、このような一般的でない表面的に陰鬱な思想を理解するのに要求される勇気を考慮すれば、アンチナタリズムが幅広い支持を得ることも決してないかもしれない。

こういったことを考えても、アンチナタリズム的考えに抵抗を持たれることは不思議ではない。しかし、反証されながらも多くの人がしがみついているような考えとは違い、アンチナタリズムには正当な議論がある。

承認による反論をするもののように、多くの人が抱いているから、というだけの理由である考えを正当化することは出来ず、プロナタリズム的見方は、有神論的な見方同様、遍在する妄想(delusion)によるものだろう、とSinghは主張する。

3. 承認があったとしても、許容不能な害は残る

次に考慮されるのは、仮に喜びと承認は等価なものであり、欺きのない承認も可能であると仮定しても、それでもある行為が許容不能となる可能性についてである。

ここで考えられるのが、性暴力にあった女性が、加害者の行為を結果的に承認するケースである。恐らく彼女はその行為を加害者の愛情表現であると解釈し、加害者は深刻な危害を及ぼしたとは思っていない。残念ながら人類の歴史において、多くの婚姻が実際にこのようなシナリオを含んできた。

性暴力と生殖は違う、という反論もあるだろう。それに対しSinghは
しかし、この返答は性暴力は生殖とは異なる形で間違った行為であるということが前提とされている。それは、性暴力は恐らく常に間違ったものであり、そう考えないという人は、倒錯した(deluded)理由からそう考えているのだと信じるに足る明らかな(prima facie)ケースが存在するが、生殖は程度の知れた(pro tanto)過ちにすぎず、その許容性を仮定する正当な理由となるに足る明らかなケースが存在すると仮定している。私は、この返答には議論の余地があると思う。生殖の許容性にとって明白なケースが存在するという考えそれ自体に挑戦するアンチナタリズム的見方は別としても、何かが「合理的(reasonable)」であるかどうかを決定するのには、多くの因子が考慮に入れられるということを強調しておかなければならない。ある判断が合理的であるという見方を動機づける一つの因子は、受け入れられた知恵との整合性である。上の例で、被害者も加害者もともに不合理なわけではない、と主張することも出来るかもしれない。つまり、彼らにとって、彼らが検討している自分たちの行ったことは、伝統的に見て許容されるものであると信じるのは不合理なことではないのだと。同様に、親になろうとするものが、生殖は道徳的に潔白な行為であるという伝統的な見方に訴えることは、必ずしも不合理なわけでも、欺かれているわけでもないとも言える。

しかし、私がここで強調したいのは、―承認の友の見方が明らかに無視している区別である―正しい判断と合理的な判断との違いである。その戦略には間違いがあると思われる。ポスト-Benatar(Benatar以降)では、私たちは生殖のケースにおいて何が正しいのかということについての何らかの見方を議論なく仮定することは出来ない。私の考えでは、著しい危害とは、私たちが行為する場合のみ問題になるものだと考えるなら、単にその行為が許容されると考えるのが合理的だということが確かめられるまで、私たちはそれを自制するべきというだけでなく―アンチナタリズムは、無神論や環境倫理と同様に、受け入れられた知恵を覆すものである!―全体を考慮した結果それが正しいことを確かにしないといけない。言い換えれば、単に承認されると信じることが合理的なものであるかを確実にするのではなく、それとは反対に、正しいことであるということが確かであるかを考慮しないといけないのだ。したがって私は、性暴力の例は、承認の支持者が提示する批判に耐えうる、原理Bへの反例となると考える。

4. 承認を保証する道徳理論はない

最後は、Singhが最も強力な反論と考えるものだというもので、承認による議論は最良の倫理理論の二つである帰結主義とも義務論とも整合しない、というものだ。

義務論的に見れば、生まれたものが生まれたことを喜びそれを承認しようが、生殖という行為からしばらく後になって現れるその帰結は、生殖という行為の是非にかかわりはない。

帰結主義的に見れば、承認それ自体が推進する良さを除けば、行為が承認されるかどうかはその道徳的是非とかかわりがない。

これらを考慮すれば、改めて原理Bより原理Aの方が、道徳的基準として相応しいと考えられる。

結論とまとめ

ここでは、Shiffrinの許容可能な危害の原理についての簡単な説明と、それに対する最も典型的な反論―承認による反論―へのAsheel Singhによる返答を見た。

その返答は以下のようなものであった:

1. 承認と喜びは違う
承認による反論とは、すなわち生まれたことを喜ばしく思うのなら、生殖は正当化されるというものだが、この返答は、個人的にたまたま良かったと思うことはある行為を承認することとは違うし、他者に重大な影響を持つ行為の是非を個人的な感情だけで判断するのは不適切であるという内容である。

2. 欺きのない承認はありえない
これは、人生のクオリティの評価は、多くの進化的バイアスによって歪められているものであるし、神を失う恐れから信念に固執する宗教と同じで、生まれなければよかったという考えを受け入れることへの恐怖も判断に影響を与えているため、やはり主観的な判断による承認はあてにならない、という内容である。

3. 承認があっても間違いは間違い
これは、性暴力の例でみたように、例え被害者本人が承認しようが、道徳的に問題のある行為は問題のある行為に変わりない、というものである。

4. 義務論的にも帰結主義的にも承認は不適
最後は、義務論的にも帰結主義的に見ても、ある道徳的行為が承認されるかどうかは、そもそもその行為の道徳的是非に関わりない、というものである。

*****

他にも、Shiffrinの原理に対するいくつか反論が考えられ、Singhは別の論文(公式には未発表だか閲覧可能)でそれらに対する返答も行っているが、それについてはまた別の記事にまとめることにする。


[1] Shiffrin, Seana Valentine. "Wrongful life, procreative responsibility, and the significance of harm." Legal Theory 5.2 (1999): 117-148.
[2] Singh, Asheel. "Furthering the Case for Anti-natalism: Seana Shiffrin and the Limits of Permissible Harm." South African Journal of Philosophy 31.1 (2012): 104-116.


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