リチャード・ドーキンスとピーター・シンガーの対談

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動画はドーキンス財団の公式チャンネルのもの

2008年に放送され、British Broadcasting AwardsでBest Documentary Seriesに選ばれた、動物学者リチャード・ドーキンス出演の英国のドキュメンタリーシリーズ『The Genius of Charles Darwin』よりピーター・シンガーとの対談

二人は対談でダーウィニズムが我々の倫理観に与えた影響を探る。肉食の問題だけでなく、中絶、カニバリズム、動物実験、チンパンジーとヒトのハイブリッドの作成、宗教など、様々な問題を取り上げている。

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リチャード・ドーキンス:英国の進化生物学、動物行動学者、ポピュラーサイエンスライター。世界で最も有名な一般向けの科学解説者の一人であるが、その活動の一環として、宗教を始めとした、超自然的な信仰に対する批判も積極的に行っており、欧米を中心とする世俗主義ムーブメントを牽引する代表的人物となっている。『利己的な遺伝子』、『神は妄想である』など、多数のベストセラーを持つ。

ピーター・シンガー:オーストラリアの倫理学者。主要著作は『動物の解放』、『実践の倫理』など。世界で最も影響力を持つ人物の一人に数えられる。




00:01―ホモ・サピエンスの神聖視


D ピーター、あなたは世界で最も道徳的な人の一人に違いないでしょう。恐らくあなたは世界で最も論理的に一貫した道徳的立場を築いている人です。しかし、まさにその論理的一貫性ゆえに様々な方面から攻撃を受けているのではないかと思うのですが。

S 確かにその通りです。一方で私が最も批判を向けているのは社会の中のほとんどの人々の動物に対する態度です。我々は動物たちの利害を十分真剣に捉えていないと思うのです。そしてある意味では、ダーウィニズムの含意することの一つとしては、それらをより真剣に捉えるべきだということだと思うのです。あるいは少なくとも我々と動物たちとを隔てるバリアの一部を取り除くべきだということです。しかしもう一方で私は、人はホモ・サピエンスという種の一員であるというだけで特別な存在であるとは思いません。例えば、ある人が生まれつき深刻な障害を持っているとします。その場合、そのような人の命を終わらせることは間違いではありません。つまりあるケースでは人は命への権利(right to life)を持っていません。何故なら彼らは価値のある有意義な一生を送れる可能性を持っていないからです。そしてもちろん保守的なモラリストや保守的なキリスト教徒からそのような観点で非難をうけることもあります。

D 私には全く論理的に一貫しているように思えます。私が思うに、おそらくすべりやすい坂のような議論を想起する人がいるのではないでしょうか。そして「植物状態の人が殺されるときに感じる苦しみは、完全な知覚を持ったウシより乏しいというのは全く正しいが、しかしひとたびホモ・サピエンスを取り囲む壁を取り除くことを許してしまえば、すべりやすい坂への道を開いてしまい、どこで終わらせるべきかわからなくなる」という人がいるでしょう。

S はい、確かにその種の議論をする人はいます。私は境界を越えることはいずれにしても不可避だという事を言いたいです。つまり、我々が死を再定義し、脳が機能することをやめることだいうことにしても、臓器は生きていて心臓は鼓動し血液を循環させている。もちろんそうすることで臓器を取り除いて他者に与えることができるようになったのですが、ある意味では、それはいわゆる人命の神聖な領域に踏み入っています。 そしてもちろん我々はある時点で人工呼吸器を外します。ただ生きているヒトであるというだけの理由で生かし続けることはしません。つまり私は、我々はある意味ですでにその坂の上にいるのです。そして我々が確かにすべきことは、我々は実際望むより先まですべり落ちることはないということです。しかし、私は一部の例外を作ることも可能だと考えています。

D はい、私もその考えに同意します。あなたは動物という言葉を用いましたが正しくはヒトでない動物というべきかと

S まったくその通りです。私が文章を書くときはよくその用語を用います。多少長ったらしいですが。まさしく我々が自分たちも動物であるという点をひとたび認識すればある問いが生じます。つまり、我々にどんな違いがあるのかと。明らかに我々には他のどんなヒトでない動物よりも優れた理性や言語を用いる能力があります。一部のヒトでない動物もある程度理性的に考え、様々な形でコミュニケーションをとることができると思っていますが。私にとってはそれは決定的なことではないということです。重大なのは、我々が苦しみを感じる能力を共有しているということです。

03:22―道徳的地位を持つ基準は何か


D これはベンサムの有名な言葉ですね。

S はい、そうです。彼は彼自身が乗り越えられない線と呼んだもので道徳的配慮の対象になるものとそうでないものを分かつものは何かと問い、もしそれが理性だというなら馬はヒトの幼児より理性的であるといえる。では、もしそうでないのなら、問題は彼らに話すことができるかでもなければ、彼らは理性的に考えることができるかでもなく、彼らは苦しむかであると。私もそれが決定的なことだと考えています。

03:55―ヒトに特別なものは何か


D その通りですね。その、多くの人が、それでもヒトには特別なものが実際にあるのだと言いますし、私もおそらく多くの点で特別なものが存在していると思っています。もちろん、他の種にもそれぞれ特別なものがあるのと同じようにですが、あなたはヒトの何が特別だと思いますか?

S 私が思うに、ヒトは他のどんな動物たちより自分たちの人生を伝記的な見方で過去を振り返り、すでに行ったことを考えたり、そしておそらくより重要なこととして、将来を計画して何をしようか、次の夏何をしようかと言える能力だと思います。例えば数年かけてどのようにキャリアを進めたいとか、私はヒト以外の動物でこれらのことを考えるものはいないと思っています。そして、そのためにもし誰かを殺すことの間違いにだけ焦点を当るなら違いが生まれるでしょう。もしあるものが将来について計画を立てられる能力を持つものであるなら、そのものを同意なく殺すことは間違いであり、おそらくその能力を持たない動物を殺すことに比べ大きく間違ったことになるでしょう。

D おっしゃる通り。その見方はよくわかります。将来という概念がない生物を殺すことが実際により悪いことでなくなるわけではいずれにしてもないでしょう。おそらくもう一つ別の、なんらかのヒトでない動物を殺すほうがヒトを殺すことよりマシである要因は、苦しみや痛みを感じる能力ではなく――間違いなくそれはないでしょうから――、そうではなく嘆く能力だと思うのです、その…

S 近親者

D そう、亡くしたものについて嘆く能力ではないかと思うのです。

S 確かにそうです。ただ動物たちもある程度死を嘆くという証拠があるということにはあなたも同意するのではないでしょうか。ジェーン・グドールが、観察していたチンパンジーの一匹について詳しく話しています。亡くなった赤ん坊を抱いて回る母親の話です。

D そうですね。

S それに、この話はどれほど確証されたものかは知らないのですが、ゾウたちは亡くなった集団の仲間の骨のある所まで立ち戻り何らかの敬意を払っているように見えるという

D ええ、不思議な話がいくつもあります。そして何らかの意味があるのだろうと思います。

06:03―中絶に関して:プロライファーたちのダブルスタンダード


D 中絶の議論において、人々は時々、いつ胎児が最初に痛みを感じるようになるかが絶対的に重要だといいます。 そして彼らは問題は神経系の発達であるとみなします。私はいつも疑いなくそれは正しく、そこを気にするべきだと思いますが、しかし神経系を発達させたばかりのヒトの胎児が感じる痛みは、ほぼ間違いなく成体のヒトでない動物よりも乏しいものでしょう。よって、ヒトの胚が正確にいつ痛みを感じるようになるかということに大きなウェイトを置く人々の間には大きな非整合性があります。

S 確かにそれは全くその通りです。間違いなく、ブタやそのような有感動物は置かれた状況についてより理解しており、ヒトの胎児よりも痛みを感じる能力を持っているでしょう。そして他にも中絶の問題に関連して言えることは、中絶を行う女性はみな深刻な決断を下していると思うのです。何か重大なことでもなければそのような選択をしないと思うのです。その一方でスーパーマーケットに行ってハムを買う人は、実際はそんなことをする必要はまったくありません。彼らは容易に別の選択をすることもできるのです。そして実際に工業畜産場で過ごす一生や屠殺のプロセスによって動物にもたらされる苦痛を、きわめて些細な理由のために支持しているのです。よって彼らはより深刻な理由で妊娠を取りやめた女性たちを白い目でみることはできなのです。なので、胎児にもたらされるかもしれない痛みは理由でないのです。

07:34―プランツゾウ(植物はどうなの?)


D ラッセルのものとされる議論がありますがもしその考え方を論理的帰結まで進めれば我々はオイスターやレタスのようなものまで食べるべきでないということになると

S いや、その、もちろんラッセルは偉大な哲学者でしたが、彼は若干バカらしいことも言っていて、それもその一つです。つまりその、レタスは間違いなく痛みを一切感じません。それを示す証拠は一切ありません。それに、同じく私はオイスターが痛みを感じるというのもまずないだろうと思ってます。オイスターも、それを食べたらあなたは本当のベジタリアンやビーガンではないという人たちが含める動物の一種かもしれません。しかし彼らの神経系はとても未発達なので彼らが痛みを感じるというのはとても疑わしいと思ってます。なのでそれについて焦点を当てることは全くしません。しかしこのことについてあなたがどんな立場をとるかぜひ伺いたいのですが、脊椎動物について話すとき、特に我々が食べる動物であるブタやウシやニワトリなど彼らが痛みを感じることは紛れもありません。間違いなく痛みを感じてるんです。彼らを飼育し、生産するときに。だから私は倫理的に彼らを食べることを正当化することができるとは思わないのです。つまり、ひとたび我々がダーウィン的な見方を本当に受け入れ我々は何らかの形で特別に創造された種で他の動物たちを支配する権利を神に与えられたものではないと受け入れるなら、実際に我々が動物から作られ、彼らの経験する苦しみを具現化した商品のすべてを購入するのをやめる方向に前進しないといけないのです。

09:04―知覚と道徳的責任の連続性


D そうですね。オイスターの問いについて私が言いたいことは、我々は境界を引く必要などないということです。連続性について語っても全く問題ないのです。オイスターがもし痛みを感じたとしてもおそらくとても小さな痛みでしょう。一方でブタは大きな痛みを感じるでしょう。そして人々がどこに境界を引くのかというとき、私は、なぜ境界を引かなければならないのか、なぜ単純に痛みを感じる能力には連続的な違いがあると認めないのか、と言い返します。同じように先に話していたような様々なことを感じる能力にも連続的な違いがあります。例えば将来を予測し何が起こるのか理解する能力など、改めてこれらにも境界線を引く必要はありません。そして、これらの事柄について連続性があるのと同じように道徳的責任についても連続的な違いがあると言えるでしょう。そしてオイスターに対する我々の道徳的責任はブタに対する道徳的責任に比べ量的に少ないし、それもまたヒトに対する道徳的責任よりは量的に少ない。ただその程度はあなたが言及したような点でヒトが異なっているという範囲においてですが。その点というのは知性ですが、それ自体は適当な要因ではなく痛みを感じる能力の方がはるかに適当な要因であり、私はあなたが正しいだろうと思います。喉をナイフで切り裂かれるようなことについて、ブタよりもヒトの方が何らかの形でより悲惨だとか痛みを感じるということを想定する根拠は一切ありません。よって、肉を食べることについて思いつく唯一の正当化は、正直言うと私も肉を食べるのですが(※)、正当化できるとすれば、あなたが先に挙げられた差異に関することで何が起こるか予期する能力や恐怖を感じる能力や誰かを失って悲しむ能力などにあると思います。私はほぼ間違いなくあなたが正しいと思います。ただ私が展開した立場も弁護可能になりうるとは思うのです。つまり、もし動物が何が起こるのか、一切の考えもないうちに例えば後ろから撃ち抜くとか。もちろんこれは彼らに工業畜産場や屠殺場に移動させられるときに行われている方法ではありません。それについてはよく知らないのですがおそらく非良心的なやり方でなされてるのでしょう。

※ ドーキンスはその後、リデュースタリアン運動に賛同し、2017年時点では、ほぼベジタリアンであると語っている

S そうだと思います。私の考えでは肉を食べるなら、あなたには知るべき責任があると思います。なぜなら、あなた自身がそれが多少の問題ではなく、あるものたちにとても深刻で長期にわたる苦痛をもたらしているものだと知ったうえでそれを支持したくないと感じているからです。それゆえにあなた自身が道徳的に同意できないからです。ただ頭を振ってお願いだからそれについて話さないでくれと言って済ませられることではないと思います。まるで、「善良なドイツ人たち(good Germans)」がユダヤ人たちに何が起こってるか知りたがらなかったことにそっくりです。

11:50―倫理的であるとはどういうことか


D 確かに、あなたの方が私よりはるかに道徳的な人です。それは認めないといけない。また別の人によってはあるいは多くの人がではあなたの道徳はそもそも何に由来するのですかと聞くのではないですか?私が恐らくあなたは今まで会った中で最も道徳的な人だろうと言いましたが、どこからそれがやってきて、その…誰かがあなたにあなたは明らかに神を信じないようだけどと言ったとしましょう。つまり感覚を持つ他者が感じている痛みに対する考慮は何を起源としてるのですか?

S そうですね、私にとって倫理的に生きるということは自分のことだけを考えるのではなく自分の行動の影響を受けるものたちの立場に身を置いて考えるということです。つまり、これはある種の黄金律と呼ばれるものです。これは自分を他者の立場においてどうなることが好ましいかと問うてみるということです。もちろんクリスチャンたちはこれはイエスに由来するものだというでしょうし、ユダヤ教徒は聖書からだともいうでしょう。しかし実際はこれはどんな倫理の中にも見つかるもので、孔子の思想にも見つかるし、初期のヒンドゥー教の書物にも見つけられます。なので私はどんな倫理的思想の伝統でも、より広範な視点を取ろうと思ったときに発展させるものだと思うのです。いわゆる宇宙的視点というものです。そうすることで、自分という存在は多くの他者の中の一つの存在に過ぎず、自分が特別であるということはなく、自分の苦しみがあなたの苦しみや他の誰の苦しみよりもあるいは動物たちのものよりも重要でないと気が付き始めるでしょう。つまり核心は、本当に倫理的に生きるということは、自分の行動によって影響を受ける他者から見たら、それがどんなものか考えるよう努めることなのです。確かに、ではなぜ配慮しなければならないのかと言われるかもしれません。もちろん配慮しないこともできます。しかしそのときは、あなた自身をそこにある現実の一部から切り離しているのであり、ある種そこにあると分かっているものを否定していることになります。出来る限り客観的にそれを見たとき、それは彼らにとって問題であるのと同じようになたにとっても問題であることが明らかになるでしょう。

D 間違いなくそれは道徳が存在するのは聖書にそう書いてあるからとか神が恐いとか地獄が恐いとかの理由だけで道徳的に振舞うという人たちよりはるかに道徳的な立場だと思います。

S そうですね。つまり、ご存知のとおり一部の宗教的道徳は利己的なもので、ただ死後に罰せられたくないとか報酬を受けたいとかの私欲的な立場のものです。しかしもし、実際神の手本に触発されているというならもう一つ私が気にかかるのは、神が一体どんな手本を示してくれているのかということです。というのも神は全能であるというのに、明らかに苦しみについて関心を払っているようには全然見えないからです。

D 全くその通りですね

S そして、それは従いたいと思うような人物ではありません。

14:45―倫理の起源


D 全く同意見です。あなたは、今説明して頂いた紛れもなく深い道徳的な配慮の感情は、それ自体がダーウィン的な起源を持つと思いますか?

S ある程度まではそうだと思いますが、それもある程度までの話です。まず最初に起こったのは他者のことを配慮する感情の発達でしょう。あなたがとてもうまく説明していたように、最初は血縁者だけであったり互恵的な関係を築く相手に対してだけであったでしょう。そしてもちろん、おそらく我々は近縁者だけの小さな集団で生活していたのだから、その集団全体としてだったでしょう。ダーウィン的な基底では普遍的利他性のようなものを得ると考える理由はなく、より制限的な何らかの形で近しい者にのみ生じる利他性であると言えるでしょう。しかしその後に生じたのが理性的に考える能力の発達なのでしょう。もちろんこの理性の能力も多くの形で生存を助けたためにダーウィン的な理由で発達させられたのでしょう。しかしその能力はご存知の通り、その目的に制限できるものではありません。つまり、一度進化によってその能力が発達させられれば様々なものを考えるために使いだされます。あるものは生存にとってとても有用なものかもしれませんが、そうでないものについてもです。しかし一度理性の能力を持ってしまったら私が先に言及したことを理解するのを自分で止めることは出来ません。つまり我々は他者の中にいるたった一体の存在でしかないのであり、その者たちも苦しむことができるということをです。そしてある種の理性的、あるいは客観的な視点から見れば、彼らの苦しみが自分の苦しみよりも重要でないと考える理由は一切ないということをです。

D まさにそうです。さらに言えば理性の関与によるものだけでなく、ある種の無意識的な本能の誤用によるものも考えられるでしょう。その本能は、なんというものであれ、我々が小さな集団で生活していた時に生じたもので自然淘汰は、出会ったものは誰であれ親切にしろというある種の経験則を支持したでしょう。なぜならその頃の環境では、誰でもというのは近親者だったからです。その頃は、その経験則だけが自然淘汰が支持すると期待できたものです。なので、このニューヨークのヴィレッジのような出会う人が近縁者でもなく二度と互恵的な関係にならないような人ばかりであるような、はるかに大きな環境に投げ込まれても無関係に経験則はそのままです。性欲のようなものです。つまり性交が生殖につながるということで、ひとたび脳に性欲が置かれると、今日のように避妊具によって性交が生殖に繋がらなくなっても性欲が消滅するようなことにはなっていません。それと同様に、ダーウィン的な生存価値のあった時代からのものとして我々は善良あろうとする欲求があるのでしょう。つまり最後まで議論を続ければ、あなたは、理性を発端とするというとても洗練された説明をされましたが、私は理性があっても結局は恐ろしくて利己的な振る舞いをするのではないかと思うのですが。それでも善良でありたいという欲求はそれを防ぐのではないかと。

S うーん、私はそうは思いませんね。つまりあなたは理性はすでにあるものに基礎作られ、思いやりや善良であることへの配慮などの類は、別のどこかから来なければならないと考えているようですが、私は理性は必ずしも狭い私欲的な考えを促すものではないと思います。我々は他の報酬も得ることもできると考えています。つまり、おそらく我々はこれらの認知的能力を様々な形で発達させてきたため、我々は人生の中である種の充足も求めます。ただ単純に食べて生殖してなどではなく、それらによって単純な快楽を得ることも出来ますが、我々は何らかの形で世界に貢献したいとも感じます。そしておそらくこれが非宗教的な人が人生の中に感じるモチベーションでもあるのでしょう。もし自分の生き方によって、そうでない場合より何らかの形で世界を良くできたなら、自分の人生はより大きな重要性を持つようになり、その方がより良く感じることにもなるでしょう。

D 完全に同意します。ちょっと悪魔の代弁をしただけです。

18:58―カニバリズムと培養肉について


D ピーター、食と菜食主義の問題に戻りたいのですが。まず極端な例を考えてみましょう。あなたの論理に従えば人間の犠牲者から来る人肉を食べることも、もしそれが本人の同意があるか、あるいは不慮の事故によるものであれば異を唱える理由はないと思うのですが、例えば、交通事故死によるものなど。

S はい、そうですね。もしあなたがその死に責任がなく、あなたがそれを食べるということで、運転手により多くの動物を殺すことを促すのでないのなら、事故死の肉を食べることには何の問題もないと思います。

D ヒトの事故死体だったらどうでしょう?

S そうですね、その場合その親類がどう思うかということが問題になります。あとは、その人自身がその、おそらく多くの人は死んだ後に食べられるということを快く思わないでしょうから、我々は人々の死んだ後についての望みを尊重すべきであり、彼らの意思に従うべきでしょう。

D 確かに、そうすべきでしょうね

S そうすることで、少なくともその理由で屈辱的に扱われるという一つの不安を生きている間に取り除くことができますからね。確かに哲学的にはもうそこにいない誰かの望みが死後にも本質的に尊重されるべきかというのはより難しい問題になりますが、やはり一般的には良いことだと思います。なので同意がない場合それを食べないという理由はあると思います。しかし本質的にはカニバリズムと我々が食べているものには大きな違いはないと思います。実際19世紀後半の英国の動物擁護者であるヘンリー・ソルトは、英国人の食事を最も大胆な料理を省いたカニバリズムと表現しました。連続性から考えれば、我々が食べる動物も我々とほとんど同じですからね。あなたも色々な意味で同意されるように。もちろん線引きをして、直接想像しうる限りで最も忌々しいことだとは言うでしょうけれど。

D 不快な要素の類があるのではないですか?

S もちろん。そしてこれについてもどうして我々はヒトを食べることに一般的な抵抗のようなものを持つべきなのかというダーウィン的な説明をすることができるでしょう。しかし一部のヒトは実際にそれを行ってきました。

D 例えば未来の研究室で組織培養の技術が発展し、研究室でステーキが培養できるようになったら、ほとんどの人は培養肉のステーキを切って食べることに道徳的な反対をしないと思うのですが、もしヒトの組織を研究室で培養したら、人々は反対するのではないかと思うのですがどうでしょう?

S とても興味深い質問ですね。というのもおっしゃる通り、私は肉を培養することに道徳的な反対は全くしませんし、それを食べることも厭いません。明らかに悲惨な生涯を送り殺された動物からのものよりはるかにマシなことです。なのでもし私の皮膚から少し細胞をとって培養したとして、私はそれを誰かが食べることに対して何の反対もありません。私は美味しいですか?と聞きますよ。PETA(動物の倫理的扱いを求める人々)の会長であるイングリッド・ニューカークの話ですが、実際に彼女は自分が死んだとき、死体を喜んで食べてもらいたいと宣言しています。友達にバーベキューでもしてもらいたいと。つまり彼女は、これは他のものたちがやっていることと大差ないがその目的にために殺され苦しみを与えられるわけではないためそちらの方が道徳的にマシだという点を強調するために言っているのだと思うのですが。

D そうですね。とても興味深い見解だと思います。パプアニューギニアの場所場所では、ある種の敬意の印として食する文化があるようですが。

S そうですね。ヘロドトスのこんな話があります。ペルシアの皇帝であったダリウスがギリシャ人たちの前であるインド人たちに死体をどうするか尋ねたら、そのインド人たちは食べると答え、もちろんそれを聞いてギリシャ人は恐ろしがったのですが、ギリシャ人たちにどうするのかと尋ねたら彼らはもちろん燃やすと答え、今度はインド人たちはそれを恐ろしがったという話です。なのでこれは文化的なものだと思います。

D そうですね。なので道徳的基底を得るためには道徳的議論に見える何かにしばしば沁み込んでいる不快な要素を分離しないといけないですね。

培養肉をめぐる倫理的議論については『培養肉を巡る倫理的問題とその改善可能性 』を参照



23:12―人工的な種の壁と滑りやすい坂の議論


D 私も交通事故で亡くなった人の死体を食べることには、あなたが言及された親族の気持ちや本人の意思のことを除けば道徳的に反対はありませんが、やはりどうしてもすべりやすい坂のことが恐らくあなたよりほんの少しのことですが気になってしまいます。我々には心の中に築いたバリアがあります。確かにホモ・サピエンスと他の全ての種の間のバリアは進化的な中間種がたまたますべて絶滅しているという意味で人工的なものです。しかし実際にそれは存在しています。そしてそこにある自然なバリアはすべりやすい坂を防ぐために有用なものにもなり得ます。なので、私もそのようなバリアを破ることへの反対もわかります。その場合あなたは、それより先まで行く人々を止めるのにより弱い立場にいることになるからです。別の例を挙げるなら、例えばあなたが中絶の範囲を一歳児や二歳児まで上げて、もし一歳の赤ん坊がその後の人生で苦痛の中死んでいくしかない不治の恐ろしい病にかかっていると分かった場合も適用できるという立場だったとして――幼児を殺すことは、厳密に道徳的に言えば、その場合いかなる反対の理由も浮かばないですし私も殺すことを支持しますが――、私が気にかかるのは、私が望むのは少なくとも、その坂はどこで止まるのかという人に対し、配慮してあげてほしいということです。

S 確かに小さな子供については問題はあるように思います。我々が彼らに対し、胎児や新生児たちに対してはそこまで感じないつながりを持っていることが部分的な理由です。しかし人々がこの領域においてすべりやすい坂の議論をするとき、反対の方向に向かって行くということを認識しないといけません。それは、まさに我々が我々と動物たちの間に線を引くということが理由です。あなたも多かれ少なかれ認めるように、我々は動物たちの苦しみを見て見ぬふりします。当然、動物たちには悲惨は帰結が待っています。だから私は、その差異の鮮明さを下げたいと思っています。そしてそれゆえに、宗教的な見方に対する私の反対の一つは、もちろんそのバリアを強化するものであり、我々だけが神の似姿に創造されたなどというもので――当然我々のどちらもそのような見方は共有してませんが――、それによって一方ではヒトに対する保護を与えてきたとも言われますが、もう一方では、そう、何十億もの知覚ある他のものたちすべてを我々に利用され虐待される立場に置いてきたことです。

26:08―動物実験について


D 菜食主義と肉食の問題に戻りましょう。我々はヒトでない動物たちを様々な形で搾取します。食べるために家畜化し、ミルクを得るために家畜化し、実験に使い…など。私が思うに、あなたが問題にするのは彼らがどれだけ苦しむかということだと思うのですが、人類とヒトでない動物全体とにとっての価値を考慮し、研究のために動物を用いることは食べることよりマシだとある種の酌量を与えることはありますか?

S そうですね。もしそれがシリアスな研究であれば。問題の一部としては、人々は動物たちのことをほとんど考えていないということです。彼らを用いてほとんどなんでもやれてしまいます。良いことに、現在化粧品のテストは減ってきていますが、それでも実験に目を向ければ、想像を絶する数のものたちが人類のなんらかの大きな利益と言われるもののために利用されています。

D ええ、全くその通りです。

S それについては厳しい態度で挑まなければならないでしょう。しかし認めなければならないのは、もし本当に利益があるのなら、つまりその、非常に多くの数の人々を救いうる見通しがあり他の全ての方法を探ってもそれ以外には救う術がない場合、それは動物実験を正当化できると言うだろうことです。しかし同時に言わなければならないことは、この種のバリアは重要ではないということです。もし同様の発展を、あるいはより優れた発展を、同様なレベルで脳に深刻なダメージを受けたヒトでの検査でテスト可能であり、そしてその両親や親類が同意を示すならば、それも同じく正当化できると考えます。

D 改めて、論理的に完全に一貫していますね。あなたは食品業界や、つまり工業畜産場や屠殺場の方が実験室で生じるよりもはるかに多くの苦しみを生み出しているということに同意しますか?そして実験室の方が工業畜産場や屠殺場よりもはるかに厳しく管理されていとお考えですか?

S もちろそれには完全に同意します。そして過去十年ほどの動物運動のほとんどの関心も食品としての利用にシフトし始めていると思います。一つの要因はその圧倒的に大きな数です。ここ米国だけでも毎年、百億という規模の動物が飼育され、食べるために殺されています。一方研究に利用される動物はおそらく2500万、3000万、あるいは4000万ほどではないかと思います。米国ではあまりいい統計を取ってないですが、それでも4000万も100億に比べれば非常に小さい数字です。加えてあなたも言われた通り、畜産に関しては、米国では実質的にほとんど法律がありません。卵を得るために、一つのケージに何匹の鶏を詰めていいかということを決める法律はありません。それは単に商業的な実用性の問題に過ぎないのです。そこは確かに動物実験とは対照的な点だと思います。一部の制限は…

29:28―奴隷制と動物利用:社会的同調としての肉食


D それは国によって異なりますね。英国では極めて厳く管理されていると思います。あなたの承認も間違いなくこの国よりは厳しいでしょうね。しかし、疑いなくはるかに多くの苦しみが畜産場で生じているでしょうし、それによって私は、とてもむつかしい道徳的立場に立たされます。明らかにあなたは非常に核心を突いていますし、あなたが肉を食べるものは誰でもそれについて真剣に考える非常に強い義務があると言われるとき、私は自分を弁護するための良い口実を全く思い浮かべることができません。私のこの立場はあなたや私が――あるいは私だけであなたはそうでないかもしれませんが――200年前、200年前…?うん、そうもう少し前、奴隷制について語っていた立場と同じだと思います。トマス・ジェファソンのようなとても道徳的な人物とされた人でさえ奴隷を所有してました。それが当たり前だったのです。つまりそれがある種の社会規範だったのです。フランダース・アンド・スワンの歌を思い出します。人間を食べないというやつですがご存じですか?フランダース・アンド・スワンの曲なんですが

S ええ、彼らは知ってます

D 彼らにはカニバリズムの宴会の歌があって、そのうちの若者の一人が人間を食べるのを拒むんです。人を食べるのは間違いだと繰り返すんです。すると彼の父親が腕を振り回してバカなことを言うなと言うんです。「人間は昔からずっと人間を食べてきた。人間が食べるためにあるんじゃないなら、なんでJUJUは人間を肉で作ったというのだ」と。そして最後のところで、あなたが言うことは動物を食べるべきでないということでしょう。そうしたらその息子は大笑いして「動物を食べるなだって?なんて馬鹿げた考えだ」というでしょう。その、奴隷制という歴史的な前例ですが、私はとてもいいものだと思ってます。というのは、かつてはそれが単なる規範であり誰もがそれを行っていて、一部の人はそれを喜んで行い、また別の人はジェファソンのように渋々行っていたという時代があるからです。私もおそらく渋々行っていたでしょう。私は社会に即して生活せざるを得なかったでしょう。それでも、誰もがやっていたからと言ってそれを弁護することは極めて困難です。これが、私が思う自分の立場です。そして願望を言えばあなたのような人が、より大きな影響を持ち、私はそれを意識の向上(consciousness raising)と呼ぶのですが、それによって肉を食べないことを社会規範とするような転換をしてくれることです。

S そうですね、全くです。あなたが言われてるのは、その社会適合性の圧力ですね。我々は非常に同調的な動物です。そして一般的な規範に反することが非常にむつかしいことがあります。それが、奴隷制について良心の呵責や疑問を持つ人々にとって、実際にそれを廃止し奴隷のない生活が可能であると想像することが困難であった理由です。だから、我々はそれをより受容しやすいように変えていっているのです。動物運動が進歩させている一つの形は、このあたりのどのスーパーマーケットに行っても肉の代替品や肉の代替による菜食料理を見つけられるということです。豆乳などのものももちろんそうです。なので、より容易でより社会的に受容しやすくなって行っているのです。我々がしなければならないのは、なんとかして閾値を越えさせて、その選択が全く困難でなくなるようにすることです。単純に多くの人がそうしているというものになり、そして、そうすることがより心地よいものになり、奴隷制と同じように漸近的に過去のものになっていくのでしょう。

D もう一つ私が思うのは、それが社会規範になるにつれて、腕のいいシェフが素晴らしいレシピを考案すれば…、つまり私が今のところ菜食品で問題なのはあまりおいしくないものが多くて…

S いや、だいぶ美味しくなってますよ。私は35年菜食主義者ですが、確かに始めたころはそう言っても間違いではなかったでしょうし酷いものが色々ありました。オックスフォードに住んでいたのですが、英国料理は間違いなく菜食には向いていませんでした。しかし今では街に素晴らしいレストランがありますし、例えば菜食レストランだけじゃなく素晴らしいビーガンレストランもあります。それらの料理なら、あなたも他の肉食者も満喫できるはずです。私はその転換点に近づいていると思っています。

33:33―ダーウィニズムと種差別の関係


D ダーウィンと我々が話してきた、種差別主義などとのつながりはなんでしょう?

S ダーウィンが行ったことは、我々ヒトはとても特別でそれゆえ動物たちには何をやっても良いという考えの多くの基盤を揺るがしたことです。それまでは、我々は神に創造されたのだと信じるのは今よりはメイクセンスするものでした。実際に聖書では、我々は動物たちを支配するよう最後に作られ、神の形に似せて作られたと書いてあります。しかし、進化論的な説明を受け入れれば、もちろんそれはナンセンスです。我々はいかなる神的存在のイメージにも作られてはいないしもちろん、誰からも動物たちを利用する許可を与えられていません。我々はただ彼らと共に共通の祖先から進化してきただけです。権利という言葉を用いて言えば、彼らも生涯を生きて楽しむ権利を我々と同じように持っています。それは、全ての分割を切り取って連続性や類似性を強調するのです。つまり、我々が話しているように苦しむ能力などを含めたことです。

D 確かにダーウィン自身、連続性について強く強調しました。彼らが多くの時間を費やしたある一つの長い議論は、ヒトを動物に似せる必要性に基づいたものでした。なぜなら彼は読者が彼の著書を読むとき、それが理解を妨げるバリアになり、そこを乗り越える必要があることを認識していたからです。つまり、それがダーウィンのやろうとしていたことだということを理解する必要があります。連続性を作ることを。

S もちろん、全く明らかなことして、彼は『人間の進化と性淘汰』において類似性の議論を、身体的な類似性や解剖学的な類似性から動物の感情について語ることで我々の精神にまで拡げました。それはヒトと動物の感情表現についての素晴らしい著作です。感情の類似性について我々の感情はこれと連続的につながっているとか、彼らのは多少異なっていて我々の方がより発達していると語りますが、彼らの感情は単に身体的な意味での痛みを感じる能力だけでなく、退屈や恐怖やフラストレーションやさみしさ、そしておそらく他者への愛さえも感じる能力があることを読み取ることができるだろうと述べられています。さらには私の記憶が正しければ、ある種の宗教的な感情さえあるのではないかと議論されています。イヌが月に向かって吠えることなどにその形跡がみられるのではないかと。なので、確かに彼は連続性を強調したがっていたのだと思います。それは宗教的な見方では完全に切り離されていたものです。興味深いのは宗教的な人たちに目をやった時です。トマス・アクィナスがいい例です。彼は、我々は動物たちに対していかなる義務も持ってなくて、苦しみを考慮する限り、彼らに対して残忍に扱わないようにする義務さえないといいました。彼が言うには、彼らは不朽の命を共有していないからだと。言い換えれば、彼らは不滅の魂を持っていないが、我々はそれを持っているのだと。よって、彼の言う我々が動物に残忍でいるべきでない唯一の理由は、動物を殺すことで残忍な気質を得て、ヒトに対しても残忍になりうるからだというものだったのです。それがすべてだったのです。アクィナスのようなキリスト教的思想家にとって動物の痛みや苦しみは全く考慮されるものではなかったのです。そしてダーウィンがその基盤を揺るがしてくれたと考えています。それに私が加えたいのはこの問題については、ある意味私はあなたよりもダーウィニズムを吸収しているのではないかということです。なぜなら、あなたは依然として動物たちを我々から切り離し、これらの宗教的信仰のなごりの影響を受けているからです。そして肉を食べ続けるということで、何らかの意味で我々は動物たちより優れているという一般的な見方の一部に――たとえその基盤を信じなくとも――加わっているからです。

D 先に言ったことに付け加えることは何もないですが、それはダーウィニズムを支持しないという問題ではないと思います。それは先に社会的同調性などについて話したことで、つまり私は、未だに極めて種差別的な社会で生きていて、頭では強くそれを理解しているのですが、しかし、その…例えばクリスマスを祝ったりクリスマスキャロルを歌ったりなどと同じように、社会に同調しているのです。

37:54―中間種の思考実験


D 私は時々空想を巡らせてあるサイエンスフィクションの物語を書くのですが、それは、アウストラロピテクスかホモエレクトスなどの、我々とチンパンジーとの共通祖先まで進化の鎖を立ち戻る種の生き残りが潜んでいるのが、アフリカの森の中などで発見されたらという話です。この小説の目的はルーシーの再発見が持つ社会にとっての意味を展開して考えてみることなのですが、もしそのような発見があったらどのようなことが起こるか考えてみてもらえませんか?

S それはとても魅力的なことだと思います。なぜならそうなった場合、あるものが法的に完全な権利を持つものとして対等であるとみなされ、財産的道具ではないとみなされるために――動物たちは未だに一般的にはそうみなされていますが――、どこで十分な道徳的地位が与えられるのかという疑問を提起せざるを得ないからです。なので、アウストラロピテクスが発見されたらと想像するのはいい考えだと思います。しかし、これを生じさせるには他にも方法があります。もし誰かが、チンパンジーとヒトのハイブリッドを生み出したら、我々は同じ問題を抱えることになります。なのでそれは科学的な可能性の範囲を超えるものではないと思います。改めて、一部のヒトは「おおそれはよかったね、それなら家事を手伝ってくれるものができてよかった」というかもしれません。しかし彼らが気づいていないのは改めて現代に奴隷制を生み出しているということです。それは、ヨーロッパの白人からはアフリカ人の子孫よりも幾分ことなる相手ですが、それでも、その…あまり言いたくはないですが、連続性であって、その、どう言いようもないですが、アフリカ人の仕事は、より他の動物に近いものでしたよね。しかしそれはただ、我々の存在の周りに境界を引くという、かつてレイシストたちが、我々は欧州人であり支配的権利を持っていると言ったのと同じです。もしアウストラロピテクスやチンパンジーとヒトのハイブリッドが存在したとしても我々は「これは我々とは違う。だから何かしらに利用して搾取してもよい」というでしょう。しかし実際は、あなたが言ったようにそのような境界は一切持つべきではないのです。そうではなく、我々が言うべきことは「ほらこの存在を見てよ。これはなんだろう?これは苦しむこともできるかな?これは何を経験しうるのかな?そしてその経験は多くの点で我々のものに似ているな?」ということです。我々とは異なるからと言ってそれを割り引いて考えるべきではないのです。

D 理論的に言えば、我々は実際のハイブリッドを作り出すことを必要とすべきではないでしょう。なぜなら、それを作り出すことが可能だという事実さえあれば、それについて考えるに十分であるべきなのです。本来はそれさえあればそこから導かれるものに関する考えを持てるべきなのです。

S 理論上はそうですね 。疑いなくあなたは実際そうしているのですし

D そうですね、大きな影響を持つでしょうね。注目の的になるでしょう。スティーヴン・グールドはかつてヒトとチンパンジーとのハイブリッドの可能性を思索して、他のどんな実験と比べてもこれより不道徳的なものはないだろうと付け加えました。私はそれを理解することができませんでした。というのも、私からすればそれはとても道徳的なものになりうると思うからです。もちろんその理由は、その影響によってホモサピエンスの周りにある壁を破壊しうるからです。

S もしそれが、実験的対象や奴隷など、そのものの利害を無視して利用するための何かを生み出す目的で行われるなら、その危険性は非道徳的になりえます。しかしもしあなたの示唆するような目的で行われるなら 確かに、それは… 

D 恐らくそれは単なる科学的好奇心から行われるでしょう。しかしその場合でも、結果としてはそのようなことにもなりうるのでは。もちろん奴隷として利用されるべきではありません。ただ結果として我々が話したような 社会的影響も持ちうるのではないかと 

S しかし、あなたが生み出すのは、あなたは否定するかもしれませんが、ほとんど我々の種と同じであり、自分の置かれた状況をしっかり理解する十分な知性を持ちながら、自分がどこに属するものなのかわからない、まるでフランケンシュタインのような存在ではないですか。メアリー・シェリーの小説の登場人物ですが、彼はとても悲しい存在です。私は彼が化け物だとは思わないですが、化け物になるのかもしれません。しかし、悲しいのは基本的には誰にも愛されない存在に作られたことです。創造者にすら拒絶されるのですよね。つまり、そんな存在になりうるのではないかと思うのです。 

D 確かにそれはあり得ます。まさにそれがその実験が非道徳的になりうる理由です。しかし、多くの人は単純に不快さの理由で非道徳的とみなすのではないかと思います。

S そうですね、私はそれには同意しませんね。 

D 我々はそれに実際に反対されるだろうことをしっかり考えていく必要があるのでしょう。疑いなく、その生物自身は酷い一生を送るでしょう。それは、ある種の見世物のようなものにされるでしょうから。

S そうでしょうね。それはまるでその、最初に見つけられてヨーロッパに連れていかれたアフリカ人が、好奇心から見世物として引き回されたようにですね

D はい、そうですね。

42:39―おしまいに:種差別主義とは


D 種差別主義とはなんでしょう?

S 種差別主義とは あるものたちに対して、単に我々と同じ種の一員ではないというだけの理由で持つ偏見的態度のことです。レイシズムが自分と同じ人種の一員でないという理由で偏見を持つものであり、性差別が別の性別の人であると言って偏見を持つものであるのと同じことです。なので我々ヒトは種差別的になる傾向があります。我々は、ホモサピエンスという種に属するものはどんなものでも、自動的により優れた道徳的地位を持っており、他の種に属するどんなものよりも彼らの実際の特性とは無関係に重要な存在であると考えるのです。

D どうもありがとうございました。

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