動物福祉に関する議論における科学者の役割 by ユヴァル・ノア・ハラリ

動物福祉に関する議論における科学者の役割 by ユヴァル・ノア・ハラリ


サピエンス全史』や『ホモデウス』の著者として知られる歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが語る、動物の福祉に関する議論における科学者の責任と役割について。

以下は動画の全訳である。
Kei Singleton


"異なる意見を持つことはできますが、科学的事実を知らないのであれば、その意見は大して相手にされるべきものとはならないでしょう。"

―みなさんこんにちは。

動物福祉における科学や科学者の位置づけについて少しお話したいと思います。

科学者は一般に、政治的議論や倫理的議論から距離を置こうとします。しかし、特に21世紀においては、ますます多くの政治的、そして倫理的問いが、科学的知識や、科学的事実や理論を知っているかということに依存するようになってきています。例えば、地球温暖化から、人工知能や遺伝子工学の台頭まで、様々です。

あなたは、これらの問題ついて異なる意見を持つことはできますが、科学的事実を知らないのであれば、その意見は大して相手にされるべきものとはならないでしょう。

そして科学者たちは、より大きな政治的そして倫理的責任を担うべきなのです。彼らは、この文脈においては、沈黙も一つの政治的主張であるということを知るべきです。もし科学者たちが何か重要なことを知っており、それが現在の政治的議論において意味を持つものでありながら、それを公で話さないという選択をするのなら、それもまた一つの倫理的選択なのです。

もちろん、科学は倫理的問題を決定することはできませんし、それは科学の役割ではありませんが、科学は事実に関する問題を決定することができます。科学は私たちに何が良いことなのかを伝えることは決してありません。それは私たちに何が現実のことで、何が本当のことなのかを教えてくれるだけです。

残念なことに、特に動物に関して、あまりにも多くの倫理的な議論がこの事実の段階で行き詰まっています。そのため、科学はこれらの議論を前進させるのに非常に役立つ可能性があります。

牛や鶏、豚などの畜産動物の福祉についての議論では、二つの重要な事実上の問いがあります。一つ目は、動物たちはそもそも苦しむことができるのか?ということ、そして次に、動物が実際に苦しむことがあるのか?ということです。

たとえば、乳牛は、仔牛と離れ離れにさせられると苦しむでしょうか?この種の倫理的および政治的議論に関与する人々が、次のようことを述べるのをしばしば耳にします:
牛たちは単純に悲しみを経験することができないため、自分の子供と引き離されても悲しみを感じることはない。悲しみはヒトの感情であり、牛が悲しむというのは擬人化に過ぎない、と。

あるいは、もし牛が痛みを経験することができると思うなら、レタスはどうなのだ?という人もいます。レタスも痛みを経験するかもしれないため、レタスを切ったりレタスを食べたりしてはいけないのではないか、と。動物の福祉に関する議論でしばしば聞かれるこのような主張は、科学的な無知を反映しています。

乳牛の扱いに関して、異なる倫理的な見解が生じる余地はあるでしょうが、それは科学的事実だけに基づく限りにおいてです。人々はそれぞれの見解を持つ権利がありますが、それぞれの事実を持つ権利はありません。次のような問いを考えてみましょう:ヒトの喜びを提供するために、牛に痛みを与えてもよいでしょうか?

あなたはこの問いについて異なる倫理的見解を持つことができますが、牛が単に痛みを経験することはできないと主張することは、2017年においてもはや正当な議論の一部とはなりません。

2017年の時点における私たちの最良の科学的理解の範囲で、事実はどんなものでしょう?第一かつ最も重要なことは、2017年における科学的理解は、すべての哺乳動物とすべての鳥類、そしておそらく少なくとも一部の爬虫類と魚、そしてそれ以外の生物たちも、意識的な知覚を持つ存在であるというものです。

彼らはみな、感覚や感情を経験する能力を持っています。それとは対照的に、レタスやトマトが痛みを感じたり恐怖を感じたりする可能性があると考える根拠や科学的な理由は一切存在しません。


◣――4:46


"乳製品業界全体が、牛を妊娠させ、彼女たちが出産した後は、母親たちをを子から引き離し、仔牛を太らせて屠殺し、枯渇するまで牛を搾乳し、そして再び妊娠させ、同じサイクルを繰り返すということで成り立っています。"

もう一つの重要な事実は、哺乳動物と鳥は、いうまでもなく痛みと喜びを感じることができるだけでなく、感覚や感情の非常に複雑な世界を持っているということです。

感情は、詩を書いたり音楽を鑑賞したりするために神がホモ・サピエンスのみに授けたものではありません。感情は、生の営みの中で決断を下すために、すべての哺乳類を含めた動物たちにおいて自然淘汰が発達させたものなのです。

例えば、アフリカのサバンナのどこかに立っているヒヒを考えてみましょう。そのヒヒが、それほど遠くないところにバナナの木があるのを見ているが、近くにライオンもいることにも気づいています。そしてヒヒは、バナナを得るために命を危険にさらすかどうかを決める必要があります。私はバナナのもとに走っていき、ライオンに食べられるリスクを負うべきか?それとも私は逃げるべきか?と。

では、ヒヒはどうやってこのような決断を下すのでしょうか。決定を下すために、ヒヒはその状況について多くの情報を集める必要があります。バナナまでの距離は?バナナはいくつあるか?それらは大きいだろうか小さいだろうか?緑色だろうか、熟しているだろうか?

ヒヒにはライオンについての情報も必要です。ライオンはどのくらい遠くにいるだろうか?ライオンの大きさは?ライオンは眠っているか?ヒヒは自分自身についての情報も必要です。どのくらい速く走れるか?私はどれくらいお腹がすいているか?ヒヒはこれらすべての情報を基に、それらを分析し、一瞬のうちに決断を下す必要があります。

さて、ヒヒはどうやって行うでしょう?ヒヒはペンと紙と電卓を取り出して、計算を始めたりはしません。

私たちが感覚や感情と呼んでいるのは、そのような決断をするために、自然淘汰が哺乳類、ヒト、そしてヒヒに与えたメカニズムなのです。一瞬のうちに、視覚、匂い、声というヒヒの知覚から、ヒヒは感覚の嵐を経験し、これらすべての情報が一緒になってもたらされる結果が感情となります。

リスクが大きすぎるとヒヒは恐怖を感じるでしょう。もしそれが良い考えならば、ヒヒは勇気を感じるでしょう。彼は胸を膨ませるか、毛を逆立てます。彼は、よし、自分にはできると感じ、バナナに向かって走り出します。

恐怖や勇気のような感情は、ヒト固有のものではありません。それらは動物が決断を下すための実用的な道具であるため、すべての哺乳動物、そしておそらく他の多くの動物にも共有されているものでしょう。

もちろん、一部の感情はヒトに固有のものである可能性があります。たとえば罪悪感なんかは私たちが知る限りでは、ヒトだけが持っていて、ヒヒや牛、鶏などは持っていない感情かもしれません。

一方でもちろん、例えばクジラとすれば、彼らに固有で、ヒトが持っていない感情もあり、私たちが単に想像することができないということもあるでしょう。しかし、恐怖のような基本的な感情はおそらくすべての哺乳類や鳥に共通しています。



もう一つの非常に重要かつ共通の感情は、母親の愛、母親と子の間の絆です。母親と子の間に強い感情的な結びつきがなければ、いかなる哺乳類も生き残って繁殖することはできません。

あなたがキリンであるかヒヒであるか、またはイルカであるか、マウスであるかということにかかわらず、哺乳動物の場合、何年、何ヶ月とは言わなくとも、も少なくとも数週間は、子は母親のミルクと世話に依存しているため、母親と子の間に絆がない場合、生き残ることができないでしょう。

しかし、科学が今、私たちに非常にはっきりと、この母と子の絆の感情がすべての哺乳類に共通していると言っているにもかかわらず、私たちはそれを科学的な文脈の外、工業畜産の文脈においては無視しているのです。乳製品業界全体が、哺乳類界のこの最も基本的な絆、すなわち母親と子の絆を破ることに基づいて構築されているのです。

まず、牛を妊娠させ子牛を出産させない限り、牛はミルクを出しません。しかしあなたが子牛を母親のそばに置いてミルクを飲むことを許せば、あなたは酪農業で何も得ることはできません。

そのため、乳製品業界全体が、牛を妊娠させ、彼女たちが出産した後は、母親たちをを子から引き離し、仔牛を太らせて屠殺し、枯渇するまで牛を搾乳し、そして再び妊娠させ、同じサイクルを繰り返すということで成り立っています。

私たちの理解の及ぶ限りでは、これは母親と子の両方に多くの悲惨さ、多くの感情的な痛みを引き起こすでしょう。科学が現在支持しているもう一つの事実は、私たちが理解しようと望むなら、畜産動物の置かれた状態を調べるとき、私たちは食物や水の要求のような彼らの持つ基本的な物質的ニーズだけではなく、感情的や社会的ニーズを考慮に入れるべきだということです。

もちろん、牛や鶏の感情的、社会的ニーズが工業畜産場でどの程度満たされているのかを議論することはできますが、牛や鶏が感情的および社会的ニーズを一切持っていないと言うことはできないのです。

◣――11:46

"事実を知りながら沈黙を続けることを選択する科学者たちは、中立な立場にはないことを理解するべきです。悲惨さを目の当たりにしながら沈黙を続けることは、極端かつ非常に残念な倫理的選択なのです。"

最後に、工業畜産場の動物たちの感情的ニーズや社会的ニーズがシステマティックに無視され、不満足を経験させられていると考えるのに十分な科学的理由があります。

たとえば、遊びへの社会的なニーズを考えてみましょう。これもまた、ヒトの子供や子犬、子牛など、多くの若い哺乳類に共通しています。

遊びたいという欲求は、非常に深い進化のルーツを持っています。野生の牛のような集団で生きる社会的な動物では、社会の若いメンバーにとって行動原則、戦いの方法、平和を形成する方法、協力する方法、などを学ぶために重要な方法なのです。

若い子牛が、何らかの遺伝的な理由で、遊びたいという欲求も衝動もなく生まれたとしたら、この子牛は牛の社会的規則を学ぶことができず、少なくとも野生では生き残ることができなくなるでしょう。

家畜化された牛は、ヒトが彼らに食物を提供し、彼らを危険から守り、そして人工的な技術で繁殖を制御するため、それらのすべてを必要とはしません。

しかし、野生で発達した遊びのような感情的または社会的衝動は、家畜化された動物でも消えません。それはまだ彼らの中に残っているのです。動物はまだそれを感じます。それはヒトと同じです。例えば、なぜ私たちは自分にとって良くない場合でもチョコレートをガツガツ食べるのでしょう?なぜなら、私たちは何十万年も前にアフリカのサバンナで発達した欲望、感情、衝動によって今も動かされているからです。それが人間になると、たとえそれらが今は不必要であっても私たちは自分の欲求にふけります。

しかし動物に関しては、私たちはそれらを無視する傾向があり、これは動物に多大な苦しみを引き起こします。母親や他の仔牛から引き離された仔牛は、遊び回る機会も与えられず小さなケージに監禁され、ヒトの子供や子犬が同じ状況であれば同じように感じるであろう極めて悲惨な状況に置かれます。しかし、これこそ世界中にいる何億もの仔牛たちが辿る運命なのです。

それゆえ、結論としては、私は科学者たちが、今よりはるかに活発に倫理的議論や政治的理論に参加してくれるようになることを期待しています。

彼らは倫理的問いを決定することはできませんが、彼らは事実を明確化すべきではあります。そして、牛は痛みを感じないとか、他の動物たちは感情を持たず、感情を持つのはヒトだけだ、などという無知な主張を埋葬するべきなのです。

事実を知りながら沈黙を続けることを選択する科学者たちは、中立な立場にはないことを理解するべきです。悲惨さを目の当たりにしながら沈黙を続けることは、極端かつ非常に残念な倫理的選択なのです。

ありがとうございました。

補足:動物と植物の意識に関する科学的議論については例えば『ビーガンFAQ:#プランツゾウ』や『意識に関するケンブリッジ宣言』を参照。

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