幸福のネガティブな存在論:ショーペンハウアー的議論

幸福のネガティブな存在論

ショーペンハウアー的アプローチ


これは、Manolito Gallegosによる論文『The Negative Ontology of Happiness: a Schopenhauerian Argument』の要約と抜粋を基に、Arthur Schopenhauerによる喜びや幸福の消極的な存在論的性質についての洞察を紹介する。

注意事項:
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Abstractはそのまま引用する:

このエッセイでは、実際に幸福は存在せず、それは単に苦の不在にそのようなラベルを貼っているだけのものだというショーペンハウアーの主張を考察する。それを行うため、その見解のためにショーペンハウアーが示した付加的な仮定や議論だけでなく、まずその主張自体を精査する。その後、いくつもの異議を挙げ、結果的にはショーペンハウアーに分のある結論を持つ、それら一つ一つに対する反証を与える。しかし、私はまた、その見解に問題をもたらす可能性のあるいくつかの哲学分野についてコメントし、幸福の非存在からどのような結論がさらに導き出されるのかということ、また、それ以上の議論がなくとも、それによって影響を受けないことが明らかな分野について簡単に議論する。

要するにこの論文は、幸福は苦の不在のことであるというショーペンハウアーの主張を紹介し、それに対して考えられる反論に対して、一つ一つさらに反論を与えていくというものである。しかしここでは、主に論文中で引用されているショーペンハウアーの議論を引用するにとどめる。

まず、ショーペンハウアーの議論で用いられる言葉が何を意味しているのかということの確認から始まる。始めに取り上げられるのが、ショーペンハウアーが「情(feelings)」という概念をどう扱っていたかということである。以下は『意志と表象としての世界』の第11節からの引用である(この記事を通して日本語訳は西尾 幹二による訳書 を参考している):

情と言う言葉が示す概念は、どこまでも消極的な内容のみを帯びている。意識の中にありありと浮かんでいるものが概念ではないこと、理性の抽象的認識ではないこと、といった消極的な内容のみを帯びている。すなわち、抽象的な理性認識に入らないものなら何であろうと、情と言う概念に入ってくると言っていい。この概念の並外れて広い範囲はそれゆえ最も異質なものごとさえも包み込んでいる。それら異質なものごとが抽象的概念ではないというただ消極的な一点で一致しているに過ぎないことを認識しておかないと、どうしてこのような異質なものごとが集まって一緒になるのかがなんとも理解しがたいだろう。なぜなら、いろいろ相異なった要素や、互に敵対する要素までもが、情と言う概念の中に安んじて並んでいるからである。例えば宗教的感情、肉欲の感情、道徳的な感情、触覚・苦痛・色彩感覚・音響感覚ならびに音の調和や不調和の感覚と言った肉体的な感情、憎悪・嫌悪・自己満足・名誉・恥辱・正義・不正義の感情、真理の感情、美的な感情、力・弱さ・健康・友情・愛の感情等々。

しかし、情の中のほんの一部のみしか、私たちが望んだり避けたがったりするような性質を持っていないと57節で説明される。ここから、部分的に苦しみの定義も導ける:

苦痛を追い払おうとして人は絶えず骨折るけれども、せいぜいのところ苦悩の姿を変えることくらいしかできない。苦悩の姿は、もともとは、欠乏、困窮、生活の維持のための心労である。もしもうまくいって、といってもそれは大変に難しいことだが、この姿のうちどれか一つある姿の苦悩を追い払うことができたとしても、苦痛はたちまちまた幾千という別の形になって現れることであろうし、年齢や境遇に応じて千変万化―すなわち性衝動、情熱的な愛、嫉妬、羨望、憎悪、不安、名誉心、金銭欲、病気、等々というあらゆる姿で現れることになるであろう。挙句の果て、苦痛の入り込める姿というものが他にもうないというようなことになれば、苦痛は今度は倦怠や退屈と言う湿っぽい灰色の衣裳をまとって出てくることになるだろう。倦怠や退屈を防ごうとしてありとあらゆる手が尽くされている。最終的に、この倦怠と退屈をうまく追い払うことに成功するとしたら、それはただ次のような場合、すなわち苦痛がまたもや以前の姿のどれか一つをまとってもう一度姿を現すことになり、苦の舞踏会がいま一度最初からやり直しになるという場合にかろうじて成功するのだと言えよう。というのは、いかなる人間の生活も苦痛と退屈の間を往ったり来たりするよう当てもなく投げ出されているものだからである。

ショーペンハウアーは苦しみの多くの形態について観察している。それについてまたいくつかの引用がなされる。

まず、ショーペンハウアーは第57節であらゆる渇望を苦痛としている:

人間の生活というものはすべて、終始一貫して願望と達成という二つの間を流れ続けているものである。願望はその本性のうえからいって苦痛である。その願望が達成されると今度はたちどころに飽きが来る。目標は見せかけにすぎなかったからである。所有は魅力を奪い去ってしまう。そうするとまたしても願望や欲求が装いを新たにして出現することになるのであろう。そうでない場合には、アンニュイ、空虚、退屈が後を追いかけてくることになるのであって、これに対する闘いは困窮に対する闘いに劣らず苦しい思いをさせるものなのである。

続いて退屈について:

一切の生あるものを駆り立てて動かし続けているのは、生存への努力だろう。ところが一旦生存が確保されてしまうと、彼らはこの先どうしたらよいかわからなくなってしまうのだ。そのため彼らを動かす第二のものは、今度は生存の重荷から逃れ出して、それをもう感じないようにしようという新しい努力となるのであり、「時間をつぶす」こと、すなわち退屈から逃れようとする努力となるのである。つまり、われわれに今わかってきているのは次のようなことだ。困窮も心労もなく安全に守られているほとんどすべての人々は、一切の余計な重荷を払いのけるに至ったかと思っていると、今度はたちまち自分自身が重荷として感じられてくるということである。それで、これまで彼らは人生をできるだけ長く維持しようと全力を傾けてきたはずだというのに、今度は他ならぬその人生を削り取るようなことを、そのつど、すなわち浪費的に過ごしてきた一時間一時間を、儲けものだと思うようになってくるのである。ところで退屈というのは、みくびっても構わない害悪では全くないのであって、退屈がつづいていくとしまいには容貌にまで正真正銘の絶望の面影がきざし始めるようになるであろう。お互いにほとんど愛し合ってもいない人間のような存在が、それなのにあれほど熱心にお互いに求め合っているというのも退屈のせいなのであり、そこで退屈こそが社交の源泉だというようなことにもなってくるのである。だからまた退屈を防ぐためには、どこの国でも他の一般的な災難を防ぐのと同じように公の防止対策が講じられているのであって、これは国策からおこなわれることでもあるのである。というのも、この退屈という害悪は、その反対の極である飢饉と同じように人間をはなはだしい無法状態へと駆り立てかねないものだからである。民衆というものは「パンとサーカス」を必要とするのである。

これより、なぜ退屈が苦しみとして適切に分類されうるのかが理解できる。

すると苦しみは、三つのカテゴリによって表すことができるかもしれない:どんな形態であれ、物事への渇望や努力;身体的、あるいは精神的苦悩や害悪や痛み:そして最後に、アンニュイ、倦怠、退屈である。分かりやすさと簡潔さのため、これらを努力、痛み、退屈、と呼ぶことにする。対照的に、幸福とは単にこれらの反対のものである。すなわち、成就、快楽、そして痛みや退屈からの緩和や解放である。

ショーペンハウアーは幸福というものは存在しないと主張しているわけであるが、続く節ではその主張のより具体的な意味が確認される:

あらゆる成就、あるいはひとびとが通例幸福と呼んでいるようなことは、もともと本質的に言えばいつも単に消極的なことにすぎないのであって、断じて積極的なことではあり得ない。それはもともと向かうからわれわれの方におのずと近寄ってくる祝福ではなく、いつの場合もなにかの願望の成就といったことであるほかないものである。願望、すなわち欠乏があらゆる享楽を成り立たせる先行条件である。ところが願望が成就すると、その願望も、したがってまた享楽もなくなってしまうであろう。そういうわけだから満足とか幸福とかいってみても、それはなんらかの苦痛、なんらかの困窮からの解放という意味以上のものではあり得ない。苦痛とか困窮といった場合、その中に含まれるのは単に現実的なあからさまな悩みだけでなく、煩わしさのために絶えずわれわれの安息がかき乱されるような願望もその中に入っているのであって、いな、それのみならず、われわれの存在を重荷として感じさせるところのあの殺人的な退屈感さえも、この苦痛、困窮の内に含まれる。

ショーペンハウアーは、欲望の性質、すなわちひとたび成就すれば、際限なく新たな欲望が生まれるということについての先の引用を要約し、こう加える:

直にわれわれに与えられているものは、いつもただ欠乏、すなわち苦痛だけでしかなく、満足もしくは享楽にいたっては、それが始まると同時にもう終わってしまった少し前の苦しみや欠乏の思い出を通じて、かろうじて間接的に認識できるものでしかあり得ない。われわれは自分が現に所有している。財産や各種の有利さのことはかくべつ気にもとめず、高く評価することもせず、それは当然なことだぐらいにしか考えていないのだが、これも今言った事情から来るのである。財産や有利さは、いつも苦しみを寄せ付けないようにしてくれるという消極的な意味でのみ幸せをもたらすに過ぎないからである。財産や各種の有利さは失われたあとではじめて、われわれはそれらの値打ちを感じるようになるだろう。なぜなら欠乏、窮乏、苦悩こそが積極的なものであり、直接に訴えかけてくるものだからである。それゆえにまたうまく切り抜けてきた困窮、病気、欠乏等々のことを思い出すのはうれしいことであるが、そのわけはこれらを思い出すことが現在の所有物を享受するうえでただ一つの術だと言えるからである。

これらは共に第58節からの引用である。つまり、ショーペンハウアー主張は、幸福とは苦痛の回避や解消によって生じる消極的なものに過ぎず、それ自体で存在するようなものではないという意味で、幸福の存在性を否定しているのだ。

論文では、このショーペンハウアーの主張に対して考えられうるいくつかの反論から弁護する議論が行われるわけだが、ここではそのうちの一つのみを取り上げることにする。理由は単純に想定される異論のレベルが取るに足らないものだからである。これは著者の想定に問題があるのではなく、ショーペンハウアーの洞察が正確であるがゆえにであると考えている。

ここで取り上げる反論は、最も良くあるであろう反論の一つでもあり「すべての苦痛の欠如に苦痛が先行するとは限らない。例えば欲求のない平穏な状態などがそうである」というものだ。つまり何らかの欠乏を埋める形でなくとも、苦痛が取り除かれた平穏な状態は存在する、と。

これに対する著者の反論は明確かつ的確だ:

いかなる生物もそのような状態では生まれない。なんらかの本能、欲求、衝動がそれを突き動かす。

これこそ、インメンダムが「必要マシーン」である生命の創造が間違いであると主張し、ベネターが苦痛こそ我々のデフォルトな状態であると主張する実証的な理由である。また、この絶え間ない必要のほんの一部しか満たすことができないからこそ、生物の主観的経験はほぼ独占的にネガティブなものなのだ。それゆえ生殖は履行不能な義務を生み出す問題のある行為であるとカントも考えたのである。

我々にとって苦しみがデフォルトであり、いかなる平安や幸福も、それをはねのけるための努力なくして実現することはできない。

論文中で考察されている他の議論に関心のある人は原論文をあたってほしい。最後に、論文の結論から一部引用して記事を締めることにする:

幸福は存在する。しかし、我々はそのアイデンティティと苦しみに対する関係、したがってまた、その価値に関する問いの扱い方について根本的に間違っている。「幸福」は、苦しみの欠如、あるいは単に苦しみ「一次的な緩和」とみなされるべきである。

苦しみなくして幸福は存在しえないが、幸福がなくとも苦しみは存在しうる。…するとより適切な二分法は、苦しみvs非苦しみではなく、「苦しみの増大」vs「苦しみの減少」となる。

存在とは苦しみの因子を和らげるか増大させるかをめぐる闘いとして、正確に記述することができる。





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