オメラスを去れ
オメラスを去れ
これは何か込み入った主張を展開しようという記事ではない。基本的にはただ、ある物語を紹介したいと思う。
アンチナタリスト/エフィリストや、ネガティブ功利主義者たちの間で頻繁に持ち出されるある物語がある。アーシュラ・K・ル=グウィンによる1973年発表の短編『オメラスから歩み去る人々(The Ones Who Walk Away from Omelas)』である。
哲学者デイヴィッド・ピアースは、アンチナタリズム/エフィリズムコミュニティと、ネガティブ功利主義/苦しみに焦点を当てた倫理の支持者のコミュニティの主要な違いはなんだ、という質問への回答で、それぞれの相違の前に共通することとして、こう述べている:
ラディカルなアンチナタリスト、エフィリスト、ベネタリアン、ネガティブ功利主義者、そして苦しみに焦点を当てた倫理を支持するものたちはすべて、オメラスを歩み去るものたちだろう。
オメラスとは、一体どんな場所なのだろうか。物語は文庫本10ページほどの短い物語であるが、内容をさらに要約すればこうである:
あるところに、オメラスという街がある。オメラスはほとんど完ぺきな理想郷だ。綺麗な景観を持ち、人々は活気にあふれ楽し気に生活している。君主制も奴隷制もなく、軍人も秘密警察もいない。それでいて、平和で繁栄した素晴らしい街なのである。
だが、それでもオメラスは完ぺきな理想郷ではない。オメラスには一つだけ問題があるのだ。オメラスのこの繁栄はある犠牲の上に成り立っている...
ある建物の地下室に一つの部屋がある。部屋に窓はなく、扉には鍵がかけられている。わずかな光が、壁板の隙間から射し込んでいるだけだ。湿っぽいその部屋の中に、一人の子どもが座っている。性別の見分けもつかないその子は知的障害児である。それが先天的なものなのか、それともその劣悪な環境と境遇のために知能が退化したのかもわからない。部屋に立てかけてあるモップが怖くてしかたないため、一番遠いところに座って目をつむっているのだが、やはりモップがそこにあるのは知っている。
鍵が開くときは、誰かが食事を運んでくる時くらいだ。あるものは子どもを蹴とばし、別のものはそばへ寄りきもせず、軽蔑の目で子供を見る。彼らは何も言わないが、子供は母親の声を思い出し、時々こう訴える。
「いい子にするから、お願いここから出して!」
彼らがそれに答えることはない。子供は裸で、食事は粗末なもの。排泄物の敷かれた床の上にいるため、脚は膿みただれている。
オメラスの住民はみな、その子のことを知っている。オメラスの繁栄は全てこの子どもの苦しみを犠牲に成り立っていることを、誰もが知っているのだ。
しかし誰もが無慈悲だという訳ではない。子供を救い出し、十分なご飯を与え、清潔にし、慰めてやりたいと思っているものももちろんいる。だがそれは許されない。子供にたった一言優しい言葉をかけただけで、オメラスのすべての繁栄や喜びは滅び去り、残りの全ての住民の幸福は失われてしまうのだ。オメラスの繁栄は、その条件と引き換えに与えられているものなのだ。
オメラスの子供たちには、大人たちが頃合いを見てその事実を目の当たりにさせる。多くの子供たちは怒りや悲しみをあらわにし、その後何日も思い悩む。しかしそのうち、きっと長く劣悪な環境で精神を病んでしまったその子を救い出しても、もはや手遅れだろうと自分に言い聞かせ、罪悪感を薄れさせていく。
だが人々の反応はそれだけではない。ある子供たちは地下室を見に行ったその足で、また別のものたちはその数日後、または数年経った後、オメラスの門をくぐり、この街を去って行く。そして、二度と戻ってはこない。
この物語を単なる空想と受け止められない人は多いのではないだろうか?この物語は、現実世界の歪みをあまりにリアルに描写しすぎている。
幸福とは何か?犠牲の上に成り立つ幸福に価値があるのだろうか?誰かを犠牲にせず幸福を得ることなどできるだろうか?幸福を求めることは良いことなのだろうか?あるものの幸福は別の誰かの苦しみを埋め合わせることの出来るものなのだろうか?苦しみを感じているものの数は、そのものの苦しみの目一杯さを無視する理由になるだろうか?
オメラスを去るということが、どういったことを意味しているのか(彼らが何処へ向かうのか)にはいくつも解釈がある。しかし、それが誰かの犠牲の上に成り立つ幸福に背を向けることを意味しているのは文字通りであり明らかだ。そして我々は「〇〇主義者」である前にみな、この物語を深く胸に刻み、現実にあるオメラスを去らなければならない。