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現代ブッディズム:拒絶主義とエゴの消去

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現代ブッディズム:拒絶主義とエゴの消去 Kei Singleton  First published: 7. Apr. 2019; Last updated: 7. Apr. 2019 このかりそめの身 1 にひとしい苦しみは存在しない。 形成せられる存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。 ―ゴータマ・ブッダ(ダンマパダ 202-203詩より) 2 はじめに このトピックは詳細まで議論しようとすれば、際限なく書き加えるべきことが増えてしまい、決して一ブログ記事で語れるようなものではない。 したがってここでは、節度のある分量内で、特に重要な点を概観することを目的とする。そのため、ブログ記事にふさわしい分量に調節するため、この記事を書くにあたって多くの部分を削った。より掘り下げた議論は、今後別の形で行っていくつもりである。 目次 1 導入:拒絶主義とは 2 ブッダの思想  2.1 ブッダのスタンス  2.2 一切皆苦   2.2.1 トレッドミルを走る遺伝子の乗り物   2.2.2 悟りと存在バイアス  2.3 諸行無常  2.4 エゴを消し去る方法 3 エゴの現代理解  3.1 「エゴ」というミーム  3.2 瞑想研究   3.2.1 エゴの神経基底   3.2.2 条件付けによる学習 4 八正道が瞑想道ではない理由  4.1 誤った瞑想理解  4.2 「自己」抑制 5 エゴ理解の重要性  5.1 新たな種類のエゴと新たな種のアンチナタリズム  5.2 エゴイズムとエゴの死 6 おわりに 1 導入 この記事では、具体的な拒絶主義思想体系の一つとして、ゴータマ・ブッダの思想――宗教的な意味合いを持つ仏教と区別し、 ブッディズム と呼ぶことにする――を取り上げる。 拒絶主義は、2014 年、社会学者ケン・コーツの著書『Anti-Natalism:Rejectionist Philosophy from Buddhism to Benatar』(Coates 2014) で導入された用語であり、私たち自身の存在に対して拒絶的な見方をする思想のことである。拒絶主義について彼はこう説明する。 [拒絶主義は] 生には、様々な形で、本質的かつ深い欠陥があることを...

倫理の自然化―オーウェン・フラナガン 他

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倫理の自然化 オーウェン・フラナガン 他 Flanagan, Owen, Hagop Sarkissian, and David Wong. "Naturalizing ethics." Moral psychology 1 (2008): 1-26. の簡単な要約。 Introduction ここで扱われるのは (1) 倫理が自然化されるべき理由 (2) 倫理が未だ自然化されていない理由 (3) ヒュームとムーアの二つの誤謬に対する弁護 (4) 規範倫理学は、多元相対主義にコミットする人類生態学の一部として最もよく理解できるということ である。 広い意味での自然主義 自然主義とは、自然世界の一部としては理解できない存在や力を想定する超自然主義に相対するものを指す。そしてこれは、存在論的な意味についても、方法論的な意味についても言える。 なぜ倫理は自然化されていないのか 倫理が自然化されていないことには、米国や世界の他の多くの地域で、未だに宗教的影響が優勢であることが大きな原因の一つとしてある。しかし、神やそれに類する存在や力を信じるもっともな認識論的理由はないことは確かなので、それを考慮して話を進める必要はない…、というところに至るまでそれなりに説明がなされているが、日本ではそういった説明を要求されることはないほど比較的マシな状況であるため具体的に取り上げる必要はないだろう。 とはいえ、儒教や仏教のように、神秘主義的なものに基づいていない信仰もあることもある。特にブッダは、超自然的な存在論についてウィトゲンシュタイン(Wittgenstein)的な「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」といった態度を貫いており、例え仏教的な教えに超自然的な記述が含まれていたとしても、ブッダの思想の本質的な部分はそれらを無視しても一貫した形で成立する。ちなみにフラナガンらがウィトゲンシュタイン主義者(Wittgensteinian)的と呼ぶブッダの態度は、日本語では「無記」と呼ばれる。 なぜ自然化なのか 自然主義的倫理は、上記のような超自然的存在論に反対する立場であり、二元論なども否定する。ただし、 倫理的自然主義が主眼を置いているのは存在論ではなく、道徳的要請にアプローチするため...