【雑記】「反出生主義者」についての考察

【雑記】「反出生主義者」についての考察


Anti-natalismという概念は、「漠然」と生殖に正の価値づけをするnatalismの否定であり、ベネター自身が中国で採用されていた一人っ子政策を例に挙げているように、哲学的立場を指す言葉とは限らない。

日本語ではしばしば、道徳的な立場としてのanti-natalismを指すものとしてアンチナタリズム、その他一般を指すものとして反出生主義という言葉があてられる。

ここでは、twitterを中心とするソーシャルメディアやブログなど、日本のネット上の「反出生主義者」についていくつか考察する。

■反出生主義者

こちらの記事でも指摘されているように、ネット上の反出生主義者たちは、そもそも子供を作れる環境になかったり、その機会を得るのが困難な人も多い。

精神病患者、自殺/安楽死志願者、発達障害者などが多く、個人的な不遇を強く認識している人が多いという印象もある。そういった人たちは、当然のこととして、そしてまた、客観的にもある程度正当なものとして、そういった不遇をもたらした親や社会に対する憎悪や嫌悪を抱いている。

しかし、自分の存在をもたらした親だけではなく、同様の行為を行う、あるいは行った人々に批判を向けるには、それが個別の事例における問題ではなく、一般的な問題として成立するものであるという、ある種の「普遍性」が必要になる。そこで、自身の思いに普遍性を提供するように思えるのが、「反出生主義」という概念である。

個人的な不遇と、それをもたらした社会や親などに対する憎悪や嫌悪に打ちひしがれていた人たちが、「反出生主義」という哲学的な議論によってバックアップを得た概念と交差したとき、どういった感情的反応が生じるかは想像に難くない。

そして、彼らが特別に選択をしなければ、自然と子供ができるリスクは非常に低いということを考えると、彼らが子供を作ること考えている、あるいはすでに子供を持っている人たちを批判することの精神的コストは、それが匿名のオンライン上で行われることも考慮すれば、ほとんどゼロであることがわかる。

■反ホモサピエンス出生主義者

しかし、彼らの多くが唱える反出生主義は奇妙なものでもある。彼らはヒトあるいはホモ・サピエンスという種の生殖にしか関心がない。

生の強制の被害者となっているものの大部分は、ヒトでない動物たちであり、彼らが送る生涯の惨めさは、大半のヒトのものとは比較にならない。もし「存在を得ることは危害である」とか、「同意なき生の強制は間違いである」といった前提から反出生主義を支持するのであれば、その対象としてヒトという種に限定する理由は何もない。



もし彼らの反出生主義が、例えば漠然と生殖を好ましく思わないという個人的な感情の表明など、哲学的な基盤に依拠しないものであり、非哲学的な(非倫理的な)意味で反出生主義を彼らが掲げているのであれば、少なくともその行動を基準とする範囲内では、ヒトでない動物の出生に加担することは矛盾ではない。

だが、そのような立場では、その見解を他者のケースにまで適用することを可能とする普遍性を持たない。もし、普遍的に成り立つ道徳的主張として、他者の行為を「間違いである」とか、「すべきことではない」と主張するためには、いくつかの前提の上に成り立つ論理的な整合性の検問がなされる必要がある。

現在、倫理的配慮の対象の範囲として、ホモ・サピエンスという種の境界を恣意的に選び出すことを正当化するのは、もし仮に可能であったとしても容易なものではない。何より彼らはそういった議論を提出する用意すらないように思える。

ではなぜ、彼らは一貫性を求めず、奇妙な立場にとどまり続けようとするのだろうか?

■アンチナタリストになるコスト

ヒトの繁殖に反対することと、ヒトでない動物の繁殖に反対することを態度として示すことの間にある違いは、先にも触れた、「精神的なコスト」の大きさである。ヒトでない動物の繁殖に反対することは、釣りを含めた狩猟などを除いて、ほとんどビーガンと同様の生活スタイルが要求される。

この生活スタイルに従うことは、多くのノンビーガンが想像しているほど困難なことではない。しかし、精神的なコストはそのスタイルに従うことよりもむしろ、強い「現状維持バイアス」を打破して、これまでの習慣に疑いを示し、大きな変化を決断することに要求される。

とはいえ、もしこのコストを理由に、自身の主張の一貫性を放棄するというのであれば、その人は実際は倫理的な立場としてのanti-natalismを真剣に捉えておらず、個人的な感情の発散のための利用しているだけなのだと言われても、反論する術はないだろう。

そしてまた、そういった振る舞いを正当化するために、ベネターを始めとする哲学者の議論をバラして「部分的に」持ち出すことも、自らそれらの議論の正当性を破壊しているに等しい。

結局のところ彼らが自分たちの態度の非整合性に対処するために行えることは
  1. 自分たちの議論が適用される対象に恣意的な基準を設けない
  2. その基準が恣意的でないという正当な議論を行う
  3. 自分たちの議論の正当性を放棄する
のどれかに限られるが、現実的に可能なオプションは1つ目か3つ目かのどちらかだろう。

■反ヒト出生主義の議論

ここで問題にしているような反出生主義者の一部による、対象をヒトに限定することを正当化するための議論もいくつか目にしたことがあるが、どれも正当な議論として受け取れるものではなかった。以下に私が目にした議論を列挙し、それらの問題を指摘しようと思う。

●「反出生主義は(原理的には)あらゆる加害を回避するから、自分は(動物製品の消費などを通して)他者を害してもいい」

これは私が見た中でも最も恐ろしい主張だ。もし、たかだか自分が生み出し得た潜在的な加害者の存在を回避しただけで、その加害者が行い得た加害行為を自分が行うことが正当化されるなら、もはや反出生主義者はヒトへのレイプや殺しをしても許されることになってしまう。

●動物製品の消費を我慢するのは苦痛だ

「我慢するのが苦痛だ」という理由で生殖を行うヒトについて自分がどう感じるかが、この主張に対する答えだろう。

この種の主張をする反出生主義は、もし子を作る欲求が生まれ、それに抗うために精神的コストが要求される環境にいたら生殖を行っていた、あるいは実際に今後なったら、「元反出生主義(実際に目にしたことがある言葉)」として、生殖を行うのではないかと予想される。

●植物だって命なのに、ビーガンは矛盾している

要するに「プランツゾウ」だ。反出生主義によるこの主張はむしろ、ヒトの生殖も植物の栽培も「同じ命」の複製であるから同等に間違いである、という結論を導くだけである。念のため改めて指摘しておくと、ビーガニズムでもアンチナタリズム/エフィリズムでも、あるいは他のあらゆる有意味な倫理的議論でも、問題にされているのは主体のウェルビーイングであり、命ではない。より詳しくはコチラを参照。

●ヒトでない動物の苦痛は、ヒトに比べて無視できるくらい小さい

この主張にも指摘すべきことが複数ある。まず、もしこの主張をするものが、ベネターの非対称性の議論や、シフリンによる危害原理のようなものに依拠して反出生主義を主張しているのなら、それらの議論で「苦痛の量」や「強さ」は問題にされていないため、自身の立場の矛盾を露呈するだけである。

次に、苦痛の「強さ」を問題とする立場であるなら、ヒトでない動物の経験している苦痛が、ヒトの経験するものより著しく弱いと考える科学的根拠はないという事実にチャレンジしないといけない。

この種の議論をするものが持ち出す前提の一つは、ヒトは自身の生について思い悩み、諸々の実存的不安を経験したり、過去や未来の苦痛を想起して深い苦しみのループに沈みこんだりするが、他の動物の認知機能はそこまで高度ではないため、ヒトの経験する苦痛のほうが大きい、というものである。

この前提の完全な検証は現時点では困難とはいえ、ある程度は正当なものと思われる。しかし、この前提は結論になんの影響も及ぼさない。

動物学者リチャード・ドーキンスが、「痛みは、同じことを繰り返すなという警告であるため、物覚えが悪く、知性が特に乏しい動物たちは、同じことを繰り返すべきでないことを即座に学ぶことができるほど十分賢いヒトと比べて、より強い痛みを感じるかもしれない」。と推測しているように、苦痛の進化的な機能を基に考えれば、彼らの経験する苦痛の強度がヒトのものより小さいと考える理由はない。

近年の認知科学研究は、ヒトでない動物の多くが、これまで一般に考えられていたよりはるかにヒトにものに近い認識機能を持っていることを明かしており(例えばコチラコチラを参照)、彼らの持つ苦痛の感受性が、ヒトのものより優位に小さいと考える合理的な理由は見当たらない。

そして、ヒトによって出生させられる動物の多くが与えられている、身体拘束、麻酔をせず身体を破壊する、生きたままグラインダーに放り込まれるなどの精神的および身体的苦痛は、最も原始的なレベルで知覚されるものであり、その強度もヒトが通常経験するものと比較にならないことが推測される。

もし元の主張が、苦痛の「総量」を問題としているとしても、状況は変わらない。ヒトの出生するは年間せいぜい数億のオーダーだが、ヒトによって出生させられるヒトでない動物の数は、数千億から1兆のオーダーを超える。個々の動物の経験する苦痛のレベルが、典型的なヒトのものとは比較にならないものであることに加え、最低でも3桁の差があるその数を考慮に入れれば、ヒトの問題に優先的に関心を向けることがバカバカしいものとすら感じられてくるはずだ。

■結論

結局のところ、anti-natalismを掲げて、他者の生殖に関わる行為を批判するには、少数の選択肢しかないように思われる。

一つは最も整合的な結論を尊重し、あらゆる知覚ある存在の繁殖に反対すること。二つ目は、ヒトの繁殖のみを問題にしたいのであれば、ヒトでない動物のみの繁殖を推進することを正当化する議論、すなわち種差別を正当化する議論を提出すること。

そうでないのであれば、自身の主張するanti-natalismは個人的な感情の発露であり、他者の行為に当てはめて批判する資格はないと認めるしかない。

多くのものが何も疑問を抱かない中で、ヒトの出生が問題であると気付いているものは、それだけで大多数より冴えた存在だ。そして、より深刻で根本的な問題を認識するまでそう遠くないところにいる。

日本はアンチナタリズム先進国となるポテンシャルを持った国であり、何らかの形でアンチナタリズムに関心を持つ人たちがより正当な態度を追求し、またそれを広めることで、多くの動物の苦しみを回避できる可能性がある。

その可能性の重さを適切に理解し、意味のある議論につなげていく人が少しでも増えることを願っている。

このブログの人気の投稿

ビーガンFAQ - よくある質問と返答集

時間の矢の起源:典型性に基づく説明

アンチナタリズム入門 ~わかりやすいアンチナタリズムの解説~アンチナタリズムとは何であり、何でないのか

ネガティブ功利主義とは

アンチナタリズムFAQ - よくある質問と返答