Zoopolis、干渉と自然状態 by オスカー・オルタ

Zoopolis、干渉と自然状態


これは Oscar Hortaによる論文『Zoopolis, Interventions and the State of Nature』の要約と抜粋である。

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Zoopolis, Interventions and the State of Nature

Oscar Horta
2013
Law, Ethics and Philosophy 1:113-25



Abstractはそのまま引用する:

Abstract


DonaldsonとKymlickaはZoopolisにおいて、動物たちを助けるための自然への干渉は許容されることもあり、場合によっては、一般に直面する危害から動物たちを救うことが義務的でもあるとも議論している。しかし、彼らはこれらの干渉にはいくつかの制限が設けられなければならないとも主張している。でなければ、野生動物たちが形成する、自治的なコミュニティと同様に尊重されるべきコミュニティの構造を崩壊させかねないためであるという。これらの主張は、生態系のプロセスは動物たちが自然界で良い一生を送ることを保証するのだという広く抱かれている仮定に基づいている。しかし、残念ながらこの仮定は全く持って現実的でない。ほとんどの動物はr-戦略者であり、存在を得て間もなく痛みの中死んで行くし、成体まで生き残ったものも、一般におぞましい危害に苦しむ。それに加え、ほとんどの動物はZoopolisが記述しているような政治的コミュニティは形成しない。そのため、野性の動物たちの置かれた状況は、人道の危機や、修復不能なまでに破綻した国家に類似したものとみなすことができる。それはHobbesの自然状態がそうなるであろう状態に合致する。これは、ヒトでない動物たちを助けるための自然への干渉には、DonaldsonとKymlickaが主張するような制限が設けられるべきでないということを意味している。

1. Introduction


この論文は、Sue Donaldson(スー・ドナルドソン), Will Kymlicka(ウィル・キムリッカ)によるZoopolis: A Political Theory of Animal Rights(邦題:人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論)の内容に関するものだ。

Zoopolis: A Political Theory of Animal Rightsは、斬新で聡明な主張のなされたとても教育的な著作である。動物倫理の最も重要ないくつかのトピックを新鮮で独創的な形で扱っており、新たな議論の道筋を切り開いている。

と述べられているように、HortaはZoopolis自体は非常に肯定的に評価している。しかし

この論文は、Zoopolisが扱う内で、私が最も重要な問題とみなすもの、すなわち我々は野性の動物たちを助けるべきなのか、あるいは行うべきなのであればどの程度までそれを行うべきなのか、ということに焦点を当てる。

と続くように、Hortaは彼が動物倫理の中でも最も重要なトピックであると考えている野生動物に対するアプローチに関して、Zoopolisの議論に異を唱える。

Zoopolisでは、野生で生きるヒトでない動物たちは、ヒトの自治的な政治コミュニティ同様に、自治的なコミュニティを形成しているものとみなされるべきだと主張されている。そのため著者らは、援助のために我々が野生に干渉することが許容される、あるいは義務付けられるようなこともあると主張するが、彼らが許容されると考える干渉は、動物たちのコミュニティを外的な援助無しで自己調整可能な状態に戻すことを目的とするものであって、例えばそれが無害な形で行われるとしても、食物連鎖を改編するような大きな干渉は除外される。

多くの人は、Zoopolisの主張ですら過度な義務を要求していると考える。その主な理由は以下の二つの仮定があるからだとHortaは考える:

(a) 我々にそのような義務はない
(b) 実際、そのような動物たちに我々の助けは必要でない

Hortaは、(a)を退けていることに関してZoopolisに同意するが、(b)に関して野生動物たちの置かれている状況は、Zoopolisが仮定するよりもはるかに悲惨であると主張する。

Zoopolisでは

自治性にはどのような能力が必要だろうか? 我々は、野生動物にとって――人間には当然のこととして――自治性に重要なことは、コミュニティが直面する課題に対応し、個々のメンバーが成長し繁栄できる社会状況を提供する能力であると主張したい(175)。

と述べられているが、Hortaは

これらの二つの状況は具体的に説明されていない。

と指摘しており、以下ではこの二つの条件についての検討がなされる。

2. 動物たちが自然界で直面する課題にほとんど対応できない理由


まず、動物たちが実際に自然が課す課題に対応出来るのかどうかが検討される。

動物たちが、自然の課す課題に対応できるかどうかを検討する最良の方法は、彼らが生き延びることができるかを見ることである。

個体群動態論(population dynamics)という分野によれば、動物の個体数の変動は二つの因子を用いて計算できる。一つは個体群の繁殖率を表す「r」。そしてもう一つは、生存率を表す「K」である。

その結果、DonaldsonとKymlickaも認識しているように、動物の繁殖には大きく二つの戦略が採用される。一つは少数の子供を作り、一個体あたりに大きな投資をするK-戦略で、もう一方は、非常に多くの子供を作るが、各個体への投資は少なくそのうちの僅かのみが生き延びることに期待するr-戦略である。そして実際にほとんどの動物が採用している戦略が、後者のr-戦略である。

これは、例え個体数が安定していたとしても、生存する個体に比べ、途方もない数の個体が早期に死亡することを意味している:

それらの存在を得る動物たちの圧倒的多数は、決して成熟することはない。彼らは飢えて死んだり、他の動物に殺されたり、あるいはその他の方法で死ぬ。彼らの一生は短く挑戦的なものであるため、彼らはほぼ全く喜びを感じることはない。しかし彼らは多大な苦痛は経験する。飢餓や生きたまま食べられることは、知覚ある生物にとって通常非常に痛ましいものであるためである。よって、知覚ある動物の生は通常、ウェルビーイングよりはるかに多くの苦しみを含むものになるのだ。

そして、例え成体になるまで生き延びたとしても、捕食や寄生虫や病や怪我や苛酷な天気や他の様々な要因によって、大きな苦痛を強いられる。しかし一般に、野性動物たちの生活は健康的なものであるという楽観的で誤った見方がされており、それが大きな問題であるのだが、Zoopolisでもこのような見方が含まれていることが指摘される:

私はこれが、Zoopolisで提示される理論の一つの問題であると考えている。DonaldsonとKymlickaはこう指摘してる:「動物たちはこのような状況で生き残るように進化してきたのであり、生き延びる能力を持っている」(182)。彼らはこうも書いている:「野生動物たちは、個体としてもコミュニティとしても、その能力を持っている」(175)。そして彼らは、例え個体が苦しみ死んだとしてもコミュニティは存続するため、このような苦しみや死は悲劇的なものではないと主張する(176, 182)。

この主張に対するHortaの指摘は重要である:

しかしこの主張は、究極的に重要なもの、すなわち個々の動物たちのことを考えれば、真ではあり得ない。

そして、先に説明されたように大多数の個体が生き延びることができないという現実からして、事実は、動物たちは個体として自然の課す環境に対処する能力を持っているという主張の逆のものである。

2.1. 自治性:内在的に価値があるのか、道具的に価値があるのか?


Zoopolisにおいて著者らは、ナチスのポーランド侵攻など、自治コミュニティの侵略を例に、コミュニティの在り方に影響を与える干渉は問題があると主張する。しかし、Hortaはそれらの例は、目的からして、対象のコミュニティの構成員の利益を考慮していないものであり、例として適切ではないことを指摘する。

我々は動物たちが主体的に生を送ることができないことを内在的に悪いことと考え、干渉に反対することがあるが、DonaldsonとKymlickaは、主体的であることが内在的に価値があることだという見方に異論を示している。彼らはドメスティックな動物たちが自律性を欠き、他者に依存的であるということは、内在的に悪いことではないということについて説得力のある議論をしている。

Zoopolisで議論されるのは、他者に依存的であるのは道具的に悪いだけであり、内在的に悪いわけではないということだ。そのためHortaは

しかし、そうであるなら、自然界の動物たちが良い一生を送るために彼らを助けることに何も問題はないはずである。もし自治性が内在的にではなく、道具的に価値があるだけであるなら、ほとんどの動物たちを苦しみと死から救う方法が干渉しかない場合、それは価値のあるものではない。

と主張する。

2.2. 自律性、繁栄、リスク回避、そして選好の不充足


続いて、では動物たちに自治性を与える理由は何だろうか、ということが検討される。Zoopolisでは、自治性によって動物たちに自律性と繁栄が与えられることが仮定されていると指摘される。しかし、これまでの議論からわかるように、個体の観点から見ればこの仮定は間違っている。

Zoopolisでは、自然界の動物たちを危険な生活から救うことは、例えばリスクを経験しないことで子供が脆弱に育ってしまうことなどを理由に反対するという主張がされている。

これに対してHortaが指摘するのが、リスクと比較した際の生存できる可能性の低さを考慮し、かつ人間の子供であったらと考えたら、そのような結論は出さないだろうということだ:

例えば、クロコダイルでいっぱいの池の中にいたら、我々は子供たちを救い出すだろう。…上で見たように、これがほとんどのヒトでない動物たちが現実世界で直面している状況であるのだ。

もう一つZoopolisで主張されるのが、干渉は動物たちの同意のないものであったり、彼らの選好に反するものになったりしうるというものであるが、これに対してもHortaは、野良犬などを保護する際に仕掛けを用いる例などを持ちを出し、死や深刻な苦痛を避けたいという彼らのより重要な選好を考慮すれば、十分正当化されうることだと指摘する。

2.3. 壊滅的状況での干渉


これまで、Zoopolisで提示された干渉に反対する、四つの要素(自律性、繁栄、余剰なリスクの回避、選好)に訴える議論を退けてきたが、続いて考慮されるのが、Zoopolisで提示される干渉が許容される条件についてである。その条件とは、壊滅状態を避けること、自治性を保てること、食物環を保てること、であるが、Hortaは干渉が成功するにはこれらの規定は守られるべきものではないと主張する。

Hortaが指摘するのは、自然界の動物たちは、恒久的な壊滅状態の中で生きており、Zoopolisの言うような政治的記述に従うなら、野生動物たちは、もはや自治的なコミュニティに改修することは不可能なほど破綻した国家に生きているということになるということ。そして、壊滅状態を回避するには、制限のある干渉では不十分で、全く新しいシナリオを導入する必要があるということだ。

続く記述はまた重要である:

KymlickaとDonaldsonは、食物環を含めた生態系のプロセスが「野性動物コミュニティの安定的な自己調整構造」(182)の一部であることを指摘する際、このことを認識している。それらの安定的プロセスこそが、ほとんどの動物たちに短く恐ろしい一生を運命づけるものなのだ。自然界にある否定的価値の他のほとんどの要因(捕食、寄生、栄養失調、病…)と同様に、r-選択は希少なリソースを巡って競い合う必要から生じる。これはまた、食物環がほとんどの動物が存在を得て間もなく苦しんで死んで行くことの原因になることを決定づけるものでもある。食物環が苦しみの原因であるのなら、食物環を変更することに反対する道徳的理由はない。また、以前の状況が破滅的なものであり、新たなものが可能であるのなら、それを復元する理由もない。

2.4. K-戦略


ここではK-戦略について触れられる。Zoopolisの主張は一部のK-戦略では適用できるように思えるが、それでも問題があることが指摘される。その理由は一つ目に、K-戦略はr-戦略に比べて極めて稀であること。二つ目に、多くの動物は自治的コミュニティを形成するような社会性動物ではないこと。三つ目に、K-戦略を取る動物は、他の動物と衝突する利害を持つこと。四つ目に、K-戦略でも依然として野生動物たちはの生は苛酷であるということ。

3. 動物たちは自治的コミュニティを形成できるのか?


この節では、そもそも多くの動物たちは、DonaldsonとKymlickaが想定するようなコミュニティを形成しない、ということが指摘される。この点について具体的な指摘がなくとも想像できるだろうことから、割愛する。

4. 著しい干渉は失敗することが運命づけられているのか?


DonaldsonとKymlickaはこう書いている:

おそらく、我々はまだ、これをどのように行えばよいかを理解していない。しかし、もし唯一の反対が失敗する可能性の高さであるのなら、全体の苦しみを減らす目的で、どのように自然界を再エンジニアリングすればよいのかの知恵を蓄積するため、少なくとも小さなスケールでのパイロット的プロジェクトから始めることも出来るだろう(164)。

そして、この点ついてHortaは同意を示す。彼も同様に、干渉の方法を模索しながら、徐々に知識を深めていくやり方を支持する。

ただし、それに加えて指摘されることは、動物たちの自治性を認めることは、建造物などによって、彼らの生息地を一切侵害しないことであるというDonaldsonとKymlickaが提示している方針に比べて、著しい自然界への干渉が成功するという見込みがより非現実的であるということもない、ということである。

そして最後に指摘されるのが

我々は、農業、産業、漁業、建築や採掘などを通して、すでに自然界に大きな形で干渉しているということを認めなければならない。従って論点は、そもそも大規模な干渉が可能かどうかではなく、我々の干渉によって誰が受益者になるべきか、そしてなぜそうであるべきなのか、ということである。

5. 生息地保全の問題


動物個体ではなく、生態系保全のための干渉は反対されるべきであるというのはHortaの主張であるが、Zoopolisも同様の見方を示している。しかし、Zoopolisの他の部分では、環境主義的な議論に類似した主張もなされていることが指摘される。これは改めて、野生動物の生に対する楽観的な見方が理由だろうとHortaは主張する。

生息地の破壊は、そこに生きる動物たちの死やウェルビーイングの減少に繋がるため問題になりうるが、DonaldsonとKymlickaが生息地破壊に反対する理由は、存在する動物の数を減らすことだと考えているように思えるとHortaは見る。そしてその点について以下のように重要な議論をする:

しかし、なぜそうなるのかを理解するのは難しい。第一に、それでも存在を得たものたちは、数がより多くないという事実によって危害を被ることはありえない。すると、問題は存在を得なかったものについてのことになる。しかし、潜在的に幸福な個体を生み出せなかったことが間違いであるとか悪いことであるという主張は、個体数倫理(population ethics)において、非常に議論を呼ぶ考えである。二つ目に、いずれにしても、彼ら自身にとっても生が悪いものになると予期されるものには存在を与えるべきでない、ということについて異論はないように思えることである。よって、生息地の消失は、動物たちの数を減らすために悪いことであるというZoopolisの仮定は、一見非常に一般的で直観的ではあるが、実際には疑わしく、個体数倫理の中で、深刻な問題を伴うものであるのだ。

この部分は、明らかにアンチナタリズム/エフィリズムを想起する議論である。

6. Conclusion


Conclusionもそのまま引用しよう:

Zoopolisは、ヒトでない動物たちに、彼らが良い生活を送るために必要とする保護を与える政治理論を提示している。私は心からこの目標を共有しているし、このように独創的で示唆に富んだ理論を発展させた著者の努力を賞賛している。私はまた、動物の搾取への反対と、ヒトでない動物を助けるための自然への干渉に対する彼らの支持も共有している。我々の見解の不一致は、そのような干渉がある種の形で制限されるべきであると彼らが主張するところで生じる。私は、そのような主張が科学的な認識の不足したものであると主張し、著しい干渉を支持する立場を弁護した。

 動物たちが自然の中で価値に富んだ一生を送るという前提と、我々が彼らを支援する理由がないという前提は広く共有されているものであるため、多くの読者が私の考え方を反直観的なものと見なすだろう。しかし、DonaldsonやKymlicka、そして他のものたちもまた、いつかこの主張がもっともなものであると認識するようになることを願っている。そして、私が提示した最も根本的な議論は、動物の個体群動態論や群集生態学に関する実証的考察に依拠しているため、彼らも最終的にそう認識するだろうと楽観的に考えている。



おわりに


以上が、Oscar Hortaの論文『Zoopolis, Interventions and the State of Nature』からの抜粋と要約である。野生動物の問題は極めて深刻でありながら、ほとんどの動物倫理の研究者や動物擁護活動家たちに無視されてきた問題である。

Oscar Hortaはこの問題について一早くから取り組んでいる研究者の一人である。彼の研究を含め、是非、野生動物の経験するものを含めた、グローバルな苦しみの問題に関心を向けてほしいと願う。

野生動物の苦しみに関連する他のマテリアルは、トピック『野生動物の苦しみ』のページを参照

Zoopolisの邦訳

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