非同一性問題について:危害の定義とアンチナタリズム

非同一性問題について:

危害の定義とアンチナタリズム



Kei Singleton

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First written: 21 Oct. 2018; last update: 21 Oct. 2018

Abstract

人口倫理学において、非同一性問題として知られる問題が存在する。一部の論者は、この問題はアンチナタリズムの推論の前提にある誤りを指摘するものであると主張する。しかしこの記事では、その指摘は本来の非同一性問題の前提を正しく理解した上で行われているものではないこと、そしていずれにしても、その指摘がアンチナタリズムへの反論として適切なものではないばかりか、むしろ非同一性問題について真剣に検討するほどアンチナタリズムという結論が不可避になることを説明する。

Contents


1 Introduction

2 非同一性問題とperson affecting view
2.1 非同一性問題とは何か
2.2 Person-affecting view

3 ナイーブなperson-affecting view:破滅の選択
3.1 長期的環境政策
3.2 奴隷児の思考実験
3.3 比較の不要性と概念的矛盾

4 Impersonal view によるアプローチ
4.1 伝統的功利主義とrepugnant conclusion
4.2 ネガティブ帰結主義
4.3 権利および義務に基づくアプローチ

5 非比較的なperson-affecting view

6 Conclusion


1  Introduction

非同一性問題(non-identity problem)とは、哲学者Derek Parfitら(Parfit 1984)によって広められた問題であり、ある状況においては、我々が普段行っている存在者に関与する行為についての価値判断を、将来存在するものへ及ぼす危害について適用した際、見かけ上推論に矛盾が生じるというものである。一部のナタリストたちがこの問題をアンチナタリズムへの有効な反論として持ち出すこともある。しかし、彼らは非同一性問題が元々何について議論しているものなのかを正しく理解していない。そして、非同一性問題に対する解答は、すでに哲学者らによって複数の異なる形で与えられている。一部のナタリストが誤解しているように、古典的な非同一性問題は、あるものが存在するケースと存在しないケースを比較することに困難があるということを言っているのではない。そうではなく、そういったケースに整合的な説明を与えると、一見より受け入れがたい結論が導かれてしまうことが問題とされているのである。しかし、受け入れがたいということと道徳的に許容できないということは当然同じではない。非同一性問題の解答に伴うある結論――その結論こそアンチナタリズムであるのだが――は、基本的な道徳的原則に反するような帰結を一切伴わない。以下の議論を通して、非同一性問題はアンチナタリズムへの適切な反論なのではなく、むしろアンチナタリズムを受け入れようとしないがために生じるパラドクスに過ぎないことを説明する。
 まず続くSec.2 である思考実験を導入し、非同一性問題が一体どういった背景で提起され、どういったことを問題としているのかを解説する。そして、その基本的な前提の中に潜む両義性を明確化することにより、古典的な非同一性問題は即座に解消されることを説明する。その後Sec.3 で、ナタリストがアンチナタリズムへの反論として持ち出すバージョンを検討し、それがいかに不合理かつ破滅的な主張であるかを具体的に示す。続くSec.4 で、古典的な非同一性問題を含め、非同一性問題を解消する別のアプローチとして、impersonal view に基づくアプローチと、それに対する反論について議論する。最後にSec.5 でSec.2 で触れた解法についてより詳しく検討し、Sec.6 で提示したアプローチについてまとめる。

2  非同一性問題とperson affecting view

2.1 非同一性問題とは何か

非同一性問題が具体的にどのようなものであるかを理解するために、次の二つのケースを考えてみよう。

ケースA:
ある女性が子供を産んだ。生まれた子の名前をアリスとしよう。アリスの健康診断の結果として医者は母親にこう告げる。「その子にはまもなく深刻な障害が現れるでしょう」。その障害は深刻かつ不治であり、生涯にわたって大きな苦しみをもたらすことになるが、その子の人生を生きる価値がないものにするほどではないとする。医者はさらにこう付け加える。「これから二か月薬を与えて治療をすれば、その状態は回避されます」。女性にとって、その薬を処方してもらうことは経済的に負担になることでもなければ、アリスに与えることにも大きな困難はないとする。しかし母親はこれを知りながらも、単に面倒であるという理由でアリスに薬を与えなかったために、アリスは障害に苦しむことになる。  

ケースB:
子供を作ることを考えているある女性が検診に行った際、医者にこう告げられる。「今あなたが子供を作ると、その子は生まれつき深刻な障害に苦しむことになるでしょう」。この障害はケースAと同様のものとする。そして医者はこう付け加える「これから二か月薬を飲んで治療をすれば、あなたが宿す子供がその障害を持つ可能性は回避されるでしょう」。この場合も薬を飲むことに大きな不便はないとする。しかし女性はこれを知りながら、単に面倒であるという理由で薬を飲むことなく、かつ二か月を待たずして子供を作り出産してしまう。その子の名前をボブとする。ボブはアリスと同じように障害に苦しむことになる1

どちらのケースも女性の選択が間違っていることは明らかだろう。二か月にわたる薬の投与によって、子供にもたらされる深刻な障害を回避することができたのだから。しかし一部の哲学者たちは、ケースAについてそのような判断は可能であっても、ケースBについてその判断は自明でないと指摘する。子供自身の立場からすれば、被る影響は実質同じであるにもかかわらずである。その理由は、ボブは存在を得た時点で障害を持っており、もともとボブという存在が持っていなかった障害を母親によって課されたわけではないこと、そしてまた、母親が治療を行って二か月後以降に子供を作ったのであれば、そこで生まれてくる子供はもはやボブとは別の人物であることから、同一の人物の二つの状態を比較するようにして、彼女は子供にとって「より悪い」選択をしたと言えないとからだという。これが非同一性問題と呼ばれるものである。

2.2 Person-affecting view


非同一性問題はは次のように定式化することができる(Roberts 2009):

  1. ある行為が間違いになるのは、その行為が誰かにとって危害になる場合であり、ある行為が誰かにとって危害になるのは、その行為が行われることで、その行為が行われない場合よりも誰かの状態をより悪いもの(worse)にする場合のみである。
  2. 例え欠陥を伴ったとしても、その人生に生きる価値がある以上、存在を得ることはそのものにとって悪いこと(bad)とは言えない。
  3. ある種の行為は、誰かをより悪い状態にするものでなくとも、間違った行為になりうる。
基本的前提(1)は、person-affecting viewと呼ばれる見方であり、行為が危害となる条件は、それが対象にとって比較的(comperative)に悪いことであるということ、および、行為が道徳的に間違ったものになる条件は、それが誰かにとっての危害となることという二つの前提から成り立っている。より形式的に書けば、行為が危害となる条件
(P1): Pによるある行為がQにとって危害(harm)となるのは、Pがその行為を行わなかった場合と比較して、その行為がQをより悪い状態(worse)にする場合である。
および、行為が間違い出ることの条件
(P2): Pの行為が間違い(wrong)であるのは、その行為が他者にとって危害となる場合である。
という二つの前提を認める立場である。非同一性問題はこのperson-affecting viewを採用した場合に生じるが、言い換えれば、非同一性問題を解消するにはperson-affecting viewの二つの前提(P1)あるいは(P2)のどちらか一方が必ずしも成り立たないことを示せばよい。続いて前提(2)であるが、これは以下のような推論に基づいている:アリスの場合、障害を持たない人生と障害のある人生という二つの可能性があり、前者と後者を比較した場合、前者の方が良いため、障害を負わせることはアリスにとって危害であり間違いだといえるが、ボブの場合、障害を持って存在するか、あるいは全く存在しないかのどちらかしか可能性しかない。そのため、もし障害があってもアリスの人生に生きる価値があると判断できる場合、ボブも存在しないことと比べれば、障害を持ってでも存在するほうが良いと言えてしまう。よって、例え障害を伴っていても、その人生に生きる価値がある以上、存在を得ることはボブとって悪いこと(bad)とは言えないことになる(see Fig 1)。ただし、言い換えればこの前提は、その障害がボブの人生を生きる価値のないものにするほど悪いものであった場合には、ボブにとって存在しない方がマシであると言えるということは否定しない。

Fig 1:  Parfitらの持つイメージ。アリスの場合は障害のある人生とない人生を比較し、障害のない人生のほうが良いため、障害を与えられることはより悪いことだといえるが、ボブの場合は、障害のある人生と、存在しない場合の二つの可能性しかないため、ボブにとって存在を得ることが悪いことであると言えるのは、ボブの人生に生きる価値がない場合だけであると彼らは主張する。

前提(2)のこの部分が依拠しているのが、前提(3)である。person-affecting viewを(3)を含める形に拡張した場合、例えば本人にとって生きることそれ自体が好ましくないような人生を送るよう強いられることは、それを何らかの別の状態と比較できなくとも、非比較的(non-comperative)に悪いことと言える。
 まとめると、古典的な非同一性問題とは、明らかに好ましくない状態に生み出されたものの出生が悪いものであると言ってしまうと、その人の人生に生きる価値がある場合、判断に矛盾が生じてしまうということのジレンマに関するものである。しかし、この見かけ上の困難は容易に解消することができる。問題は、前提(2)で「生きる価値がない」という言葉の持つ二つの意味の区別がなされていないことにある。Benatarが指摘している通り「生きる価値がない人生」という言葉は、実際には「始める価値がない人生」という意味と「続ける価値がない人生」という二つの意味を持つ(Benatar 2006)。そして、この区別を認識すれば、非同一性問題は即座に解決される。つまり、アリスにとって障害を持つ人生は続ける価値がないほど悪いものではないが(あらゆる人生に始める価値がないとしても)、障害のない人生と比べてより始める価値がないものとなるなら、ボブの人生もより始める価値のないものだということになり、例えボブの人生に続ける価値があっても、存在を得ること自体がボブにとって好ましくないこととなるため、親の行為は間違っていると言える(see Fig 2)。

Fig 2: 障害を得ることが、アリスの人生をより始める価値のないものにするのなら、ボブの人生もより始める価値のないものとなる。それでも、両者の人生に続ける価値がなくなるわけではないため、前提(2)の判断は潜在的な存在を含めた基本的前提(1)あるいは前提(3)と整合する。

このように、person-affecting viewを非比較的な判断が可能なものに拡張すれば、Benatarの「生きる価値」の区別により、三つの前提をすべて整合的に認めた形で非同一性問題は解消される2。しかし、ナタリストたちがアンチナタリズムへの反論として採用する立場は、あらゆる場合においても基本的前提(1)のperson-affecting view以外は認めないというものであり、非比較的なperson-affecting viewは有効ではないと主張する。以下、この例外を認めない立場をナイーブなperson-affecting viewとし、この立場が持つ問題、および非比較的なperson-affecting viewへの反論への返答を行い、ナタリストの主張が有効ではないことを示す。

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1 以下あえて明示しないが、これらのシナリオで考慮の対象を母親に限定している理由は、胎児の成長が母親の身体中で起こるものであるためであり、子供を作るか否か、あるいは生み出すか否か、および生まれた子供をどう扱うかを決定することに伴う道徳的責任が一方的に女性の側にのみあることを示唆するわけではない。

2 この場合、前提(2)は、「例え欠陥を伴ったとしても、その人生に始める価値があるという意味で生きる価値がある以上、存在を得ることはそのものにとって悪いこと(bad)とは言えない」。に修正される。しかし、Benatarの非対称性に基づけば、結局始める価値のある人生は存在しない。


3  ナイーブなperson-affecting view:破滅の選択

3.1 長期的環境政策

ナイーブなperson-affecting viewは基本的な前提(3)を退け、かつ潜在的な存在者の利害も考慮しないというものである。しかしここで改めて強調しておくべきことは、非同一性問題は、明らかにこの選択が誤りと考えられるために、Parfit自身を含めた多くの哲学者によって解決すべき問題とみなされ議論の対象とされてきたのであり(Roberts 2009; Lawlor 2015)、向こう見ずな生殖や未来の世代への無責任な行為を正当化するための口実として用いられるものではないということである。実際、もし(3)を退け、厳密な意味での基本的前提(1)による推論が正しいとした場合、上に挙げた仮想的な例だけでなく、現実にも多くの深刻な問題をもたらすことになる。
 ナイーブなperson-affecting viewは、現在存在するものの利害しか考慮する必要がなく、将来的に存在しうる潜在的な存在の利害は一切考慮する必要がない、あるいはそもそもそのような考慮はナンセンスであるということを意味しているのだが、さらに言えば、潜在的な存在にまで配慮することは、現存する存在の利害にとって好ましくない方向に働く場合も多いため、我々は極めて向こう見ずな選択をすることが道徳的に要請されることさえありうるということを意味している。例えば、現在の世代が、資源を枯渇してしまうほど配慮なく使えば、その世代やその後の数世代の人生のクオリティは向上するだろう(ここで、議論のために他の生物集団にもたらす悪影響は考慮しない。また、以下この記事では、簡単のために人間に関するケースのみに限定して話を進める)。一方でそのつけはその後の世代に回され、数世代先に生まれてくるものたちは負債を背負うはめになる。しかし、ナタリストの採用する推論に従えば、資源の枯渇はまだ存在していない未来の世代に悪影響を及ぼすが、そのような選択でより悪い状態に置かれる誰かは存在せず、異なる選択をとった場合に生まれてくるであろう存在とも同一ではないため、悪いこととは言えないということになる。これは、気候変動に関する政策などについても同様のことが言えてしまう(Boonin 2008)。このことを考えれば、ナイーブなperson-affecting viewはアンチナタリズムの議論をかわすためだけのアドホック(その場しのぎ)な議論では済まされないことがわかるだろう。本気でその見方を主張するのであれば、同時に現実に存在する最も重大な課題に関しても、極めて破滅的な見方を許容しなければならなくなる。

3.2 奴隷児の思考実験

これが示唆する具体的な行為は気候変動対策の放棄や資源の無制限な利用だけではない。例えば遺伝子編集技術やクローン技術などによって、既に存在するものの利益のために、新たに利用の対象としての存在を、それらの存在自身の利害を一切考慮することなく生み出して良いということも示唆される(Zuradzki 2013)。これについてある古典的な思考実験がある:あるカップルがある裕福な男とある契約を交わす。その契約とは、カップルはこれから子供を作り、生まれてすぐにその子を5万ドルと引き換えに男に奴隷として売り渡す、というものだ(Kavka 1982)。奴隷としての一生はもちろん苦境の多いものであるが、続ける価値がないという意味で生きる価値がないほどではないとしよう。さて、このカップルの選択も明らかに間違ったものであると思われる。しかし、ナイーブなperson-affecting viewに従えば、その子供は奴隷として生まれないのであれば、他の状態で生まれてくることはあり得ず、生まれた時点から奴隷としての地位は確定しているのであるから、より悪い状態にされたということもできないため、間違った行為とは言えないということになる。これに対し、生まれていないものの利害を考慮する必要はないが、生まれたものを奴隷として扱うことは間違っているという反論があるかもしれない。しかしそれこそまさにナイーブなperson-affecting viewの問題を示している。実際に子供が生まれるまで、奴隷として生み出す契約を交わすことは全く問題ないが、親にはその子が生まれた途端、その契約を破棄し子供を男から救う義務が生じるという不連続な判断を導くということが、ナイーブなperson-affecting viewに欠陥があることを強く示唆している。もし実際に契約を履行することが子供にとって間違ったことになるため、契約を破棄することになるだろうということが事前に予測できるという理由で、その契約をすべきでないというのであれば、それは事前に潜在的な存在者の利害を考慮に入れているということであり、ナイーブなperson-affecting viewの前提に背いている。例え子供が生まれることによって危害を被っているといえなくとも、金銭と引き換えに奴隷として生み出すことを選択した親の利己性や意図、あるいは物として扱われる子供自身の権利が侵害されることが問題であるため、親の行為は間違っているといえるというのであれば、それも、行為が間違いであるためには誰かを害さなければならない、というナイーブなperson-affecting viewの前提に反している(Kavka自身はこの義務論的な立場からこの問題の解消を試みている。これらを含めたimpersonalなアプローチは次節で扱う)。最後に、奴隷としての地位は子供に内在的な性質ではないため、実際に生まれた後に奴隷として受け渡すことによって、子供をより悪い状態にし、害しているといえるという反論もあるかもしれない。その場合は初めに述べた、バイオテクノロジーによって既に存在するもののために本人にとって好ましくない性質を内在的に備えた存在を生み出すケースに置き換えて考えてみればよい。猟奇的な趣味や実験研究のために、本人のウェルビーイングにとって本質的に深刻な欠陥のある存在が生み出されたとした場合、例えそのものを生まれた後にどれだけ丁重に扱おうとも、本人が深刻な苦痛から解放されることはない。
 ナイーブなperson-affecting view一般について、将来の世代に配慮した政策を採用するほうが結果的に現在存在するものの利益にもつながるという弁護も考えられるが、それも数世代先までの話である。せいぜい100年程度の閉じた時間範囲で、既に存在するものの利害のみを考えて社会構築や政策決定をしたならば、我々の取るべき行動が一変することは明らかだろう。その時間範囲で、現在存在するものへの配慮のみに基づく方針を「現在」決定するのであれば、その数世代先の存在がその後に世代をつなぐことによって享受する利益は考慮に入らないため、いずれにしても極めて近視的――そして破滅的――な方針が優先されるだろう。彼らにとって潜在的な存在者の利害を考慮することは、小説やアニメの登場人物の利害を考慮することと変わらない。漫画の登場人物のために資源をストックし、それを必要とする実在する人間への供給を制限することなど狂気でしかない。ここで改めて、潜在的な存在はやがて実在者になりうるという点で漫画の登場人物とは配慮の責任が違うという当然の反論をナイーブなperson-affecting viewの支持者は行うことができない。
 あまりに向こう見ずな選択は、生まれてくる存在の人生を続ける価値もないという意味で生きる価値のないものにしてしまうため、そのような選択は行われないという反論もあるかもしれないが、改めてこのナイーブなperson-affecting viewを採用するものにとっては、前提(2)のような推論も意味をなさないということを指摘しておこう。人生に生きる価値があるかどうかという問いは、(続ける価値がないという意味で)その人生に生きる価値がない、すなわち死んだほうがましという判断が可能な場合にのみ成り立つ。しかし、ナイーブなperson-affecting viewによれば、死んだ後の状態は、生まれる前と同様に比較可能な状態ではない。よって、あるものを例えどれほど悲惨な状態に陥れようとも、そのものの生まれる前と死んだ後の主観的に状態を比較できないから、そのものは生まれなければよかったということも、死んでしまった方がマシだとも言うことができないということになる。身近な現実的問題の一つとして安楽死を例に考えてみよう。あるものが、慢性的な恐ろしい苦痛に苦しめられており、治療の望みもなく、どんな生きる喜びも享受できる状態でなくなってしまった場合、我々はそのものの生を終わらせることはそのもの自身にとって良いこと――あるいは少なくとも良いことになりうる――と判断する。この判断もナンセンスだというナンセンスな立場が、ナイーブなperson-affecting viewなのである。結局のところ、存在すること自体が本人にとって良いことか悪いことか判断するためには、我々が存在しない場合あるいは存在しなくなった場合を比較するしかないのであるが、存在するものにしか主観的状態は存在しないという理由でその比較がナンセンスであるという彼らにとっては、生まれることが本人にとって良いということ、または悪いということ、あるいは死そのものが本人にとって良いことや悪いことになるという判断が全く意味をなさないということになるのである。

3.3 比較の不要性と概念的矛盾

そもそも行為が危害であること、あるいは間違いであることの条件として、比較的な判断が可能でなければならないという仮定は論理的にもっともらしいわけでもなく、正しいと想定する理由もない。なぜなら、現在の状態が本人にとって悪いものであることを判断するのに、別の状態と比較する必要は全くないからである。痛みやかゆみなどの感覚的特性は、何かと比較して相対的に存在するものではない。特定の瞬間の脳状態を外部から定性的に解析することにより、第三者的にその状態の「悪さ」を理解することもすでに可能となっている(see e.g.(Saarimakiet al. 2015))。原理的にはこれを定量化することも不可能ではないだろう。よって本人にとって特定の状態が苦痛の伴う悪いものである場合、別の特定の経験的状態と比較することなく、その状態は生じるべきでなかったという意味で、その状態をもたらす行為が行われないほうが良かったと言える。
 例えば設計の段階からその目的で、苦痛のみを経験するロボットが作り出されたとしよう。何らかの環境的、あるいは技術的理由により、今後も彼が別の状態を持って存在するということはあり得ないとする。それでも、彼にとってその苦痛は非比較的に悪いものであり、その現象は生じるべきではなかったと言える。生じるべきではないと言えないのであれば、それが悪いものであるということに反するし、それが悪いものではないというのなら、苦痛であるということに反する3。しかし、苦痛は彼の脳で起こっている物理現象であるのだから、それを否定することはできない4
 Sam Harrisが述べているように、道徳的見解に不一致は見られても、一つ確実に言える客観的な道徳的事実がある。それは、誰にとっても可能な限り悲惨な状態は悪い(the worst possible misery for everyone is bad)ということである(でなければ「悪い」という言葉は意味を持たなくなるし、他の状態と比較してそれよりも良い状態が存在することを認めないということは、現実に存在する物理的差異を無視することになる)(Harris 2011)。しかし、このナイーブなperson-affecting viewを採用する限り、少なくとも次に生まれてくるすべてのものにとって、可能な限り悲惨な状態を生み出すことも悪いことだといえなくなる。このように、ナイーブなperson-affecting viewは現象と整合的な見解を提供することができず、定義からして間違っていると言える。結局、仮定(3)の拒否、すなわちナイーブなperson-affecting viewへの固執は、道徳的問題を解決するよりもむしろはるかに多くの問題を生みだす選択であるし、他の一般的な道徳的判断としても、概念的な矛盾を生じさせる。よって非同一性問題の適切な解決を提供することもないし、アンチナタリズムに反論する材料にもならない5

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3 一般の場合、苦痛に伴う利益や利益の可能性と混同しないように注意。例え苦痛の不可避な世界で、ある利益の代償として苦痛を引き受けることはあっても、仮にその後のあらゆる帰結が全く同じであれば苦痛が無い方が良いと言えるように、苦痛は常に非比較的に負の価値(悪さ)を持っている。

4 ロボット倫理とアンチナタリズムについては、本ブログ記事  『ロボット倫理:反種差別主義とアンチナタリズムの観点から』参照


5 人類の存続を望むためにこの視点からアンチナタリズムを退けようとしているものにとっては残念なことだろうが、この立場を採用しグローバルな適用を支持することは、結果的にアンチナタリズムのグローバルな適用よりもはるかに速い人類の絶滅を導くことにもなるだろう。


4  Impersonal viewによるアプローチ


前節では(P1)に固執するナイーブなperson-affecting viewがなぜ間違いであるかを見たが、ある立場のものたちは、person-affecting viewが持つ、ある行為が間違いであるためには、誰かを害さなければならないという前提(P2)を採用せず、より広いケースでなんらかの行為が道徳的に間違ったものになりうるということを主張する。これらの見方はimpersonal viewと呼ばれるものに分類されるが、Parfitもperson-affecting viewでは非同一性問題を解消することはできないと考え、impersonal viewに解決を探った。以下、非比較的なperson-affecting viewについて議論する前に、impersonal viewによるいくつかのアプローチについて議論する。

4.1 伝統的功利主義とrepugnant conclusion

代表的なimpersonal viewを採用する立場である伝統的功利主義の見方に基づけば、問題であるのは行為が帰結としてもたらす全体の幸福の総量あるいは平均量への影響であるため、深刻な障害を生み出す選択は、当人へ及ぼされた影響に関する価値判断について言及することなく、道徳的に間違った行為であると判断することができる。しかし、これらの見解も別の問題を導く。もし総量的な見方をとるのなら、よりクオリティの高い人生を送っている小さな集団は、それよりも個々の人生のクオリティは低いが、数が多い集団よりも悪いものだということになってしまう。つまりこの理論では、比較的充実した人生を送る100人の集団と、(続ける価値がないという意味で)生きる価値がないほどではないが非常にクオリティの低い人生を送る1,000,000人の集団のほうがより良いものだと示すことになるのだ。ここから、各個人の人生のクオリティが生きる価値がないという水準に至るぎりぎり前まで、人口を増やすことが望ましいという結論が導かれる。この受け入れがたい結論はrepugnant conclusionと呼ばれる。一般にrepugnant conclusionを避けることは、最初の三つの前提の内にある誤りを同定することに加え、非同一性問題の解消の条件の一つとみなされる。
 全体の幸福の平均を基準とする見方をとるのなら、repugnant conclusionは避けられる。しかしそれでもまた別の問題が生じる。例えば高いクオリティの人生を送る集団に、依然として水準は十分高いが、その平均よりもわずかに低いクオリティの人生を送る存在が付加されたら、集団全体の平均は下降するため、これも悪いことになる。つまり、平均的に十分良い人生を送っている集団は、それ以上子供を作らないほうが良いということにもなりうるのだ。Parfitはこれも受け入れられないとした。これはmere addition paradoxと呼ばれる。mere addition paradoxは実際には問題ではないが、平均功利主義は別のところに深刻な問題を抱えている。この見方では、幸福の平均量だけが問題であり、その分布の仕方は考慮されないため、功利主義者たちの多くが行うように、快と苦を同じ価値軸上に置いて仮想的な功利計算を行う限り、一部の人間が十分高い幸福水準にあれば、別の一部の人間がどれだけ苦しんでいようと平均的に見て良好な状態とみなされてしまうことにもなるのだ。総量功利主義を含め、伝統的功利主義者にとってオメラスのような悲劇的なシナリオは問題ではないのである。

4.2 ネガティブ帰結主義

これらの伝統的な功利主義が間違いである理由の一つは、幸福と不幸、快と苦あるいはポジティブ・ウェルビーイングとネガティブ・ウェルビーイングの間にある非対称性を無視していることにある。その点を考慮に入れ、不幸の総量あるいは平均を最小化することを基準として採用するネガティブな定式化を行えば、上に挙げた問題の一部は解消される。まず不幸の総量の最小化を基準とする立場からはrepugnant conclusionは導かれない。そして平均的な立場からも、誰かの幸福のために別のものを犠牲にすることが正当化されるような結論も導かれない。しかし、それでもこの功利主義的な見方では、消極的なオメラスのような帰結に陥る可能性が全くないとは言えない6。結局、功利主義にはウェルビーイングを経験する個々人の区別を行わないという思想の根本的な部分に病根があるため、問題を綺麗に片づけることはできない。
 とはいえ、ネガティブな定式化をすることで、repugnant conclusionを避けた非同一性問題の解答は得られる。多くのものがこの解答を退ける理由は、mere additionにとどまらず、あらゆる生殖が道徳的に問題になりうるという判断、すなわちアンチナタリズムが導かれるからである。あるいは、ネガティブ功利主義については、慈善的な世界破壊者(The benevolent world-exploder)とも呼ばれる破壊的行為者の誕生が懸念されることもある。これは、世界全体を一瞬にして破壊できるのであれば、総合的に見た苦の最小化、あるいは苦の根絶につながるため、ネガティブ功利主義者は慈善的な破壊者になりうるというものである。しかし、帰結主義であるネガティブ功利主義にとってこのシナリオはあまりに非現実的であり、考慮すべき問題とはならない。実際、ネガティブ功利主義者の多くは、グローバルなアンチナタリズムすら非現実的であるといって、主要なアプローチとして採用しない7。このアプローチによるより本質的な問題は、ボブという個人が被る不利益に焦点があっていないことである。そのため、この議論は一つの解答を提示するが、その解答はperson-affecting viewの枠内で構成される解答と比較すれば、十分満足のいくものとは言えない。

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6 ネガティブ平等主義(negative egalitarianism)に基づけば、苦の分布についても考慮されるため、この種の問題も回避できる。ネガティブ功利主義が導かれる元となったPopperの思想も、この点ではこちらの立場に近い。 see e.g. http://www.animal-ethics.org/negative-consequentialism

7 であるなら、前節のナイーブなperson-affecting viewがもたらす帰結も非現実的であるという主張もありうるかもしれないが、近視的で全く不十分な気候変動対策や、バイオテクノロジーによる生物実験など、すでに現在世界で進行している出来事に目を向けてみれば、先に挙げた例は「現実的」であるどころか、現実の問題であることがわかる。


4.3 権利および義務に基づくアプローチ

誰かを害さなくとも、ある行為が間違いとなりることを説明する別のアプローチは、生まれてくるものの道徳的権利に訴えるものだ8。非同一性問題の文脈に限らず、生まれながらに与えられるべき権利として、バースライツ(Birthrights)という一般的な概念がある。そして、特定の誰かに害を及ぼすことがなくとも、例えば人種差別発言など、不特定な誰かの道徳的権利を侵害する振る舞いをすることは間違いだと考えられる。障害とともに存在を与えられることは、健全な環境を与えられる子供の道徳的権利を侵害していると一部の著者らは主張する。これに対して、いくつかの反論が挙げられる。一つは、その障害を持つ人生が生きる価値がないほどのものならまだしも、例え障害を持っていても、総合的に見てその人生に生きる価値があるのなら、道徳的権利の侵害とまでは言えないのではないかというものである(Boonin 2008)。しかしこの反論は先に説明した「生きる価値のある人生」という言葉の含む「始める価値のある人生」と「続ける価値のある人生」という二つの意味を区別していない。例えその人生に続ける価値があろうとも、その人生に始める価値がないものであれば、この議論の基本的な前提を認める限り、道徳的権利の侵害とみなすことができる。別の反論は、なんらかの権利を侵害しているからと言って、必ずしも間違った行為にはならないのではないか、というものであるる(Roberts 2009)。これは、例えば医者が緊急搬送された患者に対して、本人の同意を得ることなく手術を行う場合など、患者の一部の道徳的権利や法的権利を無視することもありうるが、その場合医者の行為は間違いとはみなされないといった可能性を念頭に置いている。しかしこれもまた、純粋な利益とより大きな危害を避けることによる利益の間にある非対称性についてのShiffrinの議論を権利侵害に応用すれば解決される(Shiffrin 1999)。この医者のケースのように、対象にとってのより大きな危害を避けるという利益のためであれば、より小さな危害を与えること、あるいは何らかの権利侵害を行うことは認められるが、例えば眠っている相手に同意なく、身体能力や知性の向上などの純粋な利益を与えるが、無視しえない副作用を伴う薬を注入するといった行為は許容されない。生殖は明らかに前者ではなく後者に該当する。また、類似した批判として、生まれたものが生まれて良かったと考えるのであれば、例え道徳的権利の侵害であっても間違った行為とはいえないのではないか、というものも考えられる。しかし、生まれたものが主観的にどのように感じようとも、生み出すという行為それ自体が間違っている以上免罪の理由にはならない。同様の指摘はVellemanも行っている:
ある子供が生まれたことを喜ばしく思うという事実は、彼が自分の母親の生殖の義務について免罪するということを必ずしも意味しない。彼は自分の母親に対して「私は生まれてよかったけれども、私のようなケースで子供を作ることは間違っていたよ」と合理的にいうことも可能である。また彼にとってこのように合理的に言うことが可能なだけでない。ひとたび彼が、他の子供たちには、彼らの親に与えられる最良のスタートを与えられており、自分たちがそれにふさわしい存在であると分別を持ってみなしていることに気づいたのなら、実際にそれを口にすることもありうる。彼は自分が生まれて良かったと思いながらも、バースライツを訴え続けることになるだろう(Velleman 2008)。
念のため補足しておくと、(何らかの標準的な基準からみて)完全なバースライツを与えられたボブの存在というものは非同一性からしてありえないが、それでも道徳的権利の侵害を行った親を訴えること自体に矛盾はない。続いて考えられるのが、障害を得るのは胎児の段階であり、胎児は道徳的な権利を持つ存在、すなわちpersonとはみなせないため、結局権利を侵害されるものは存在しないのではないか、というものである。これに対しFeinbergはこう答えている:
胎児はpersonになる以前には、権利の所有を含めた潜在的なpersonとしての属性を持つ潜在的なpersonであり、…もし彼が誕生(想定されるpersonhoodの始点)とともに持つことになる権利の一つが発達と充足の完全な障害となるものから自由である権利、すなわち許容可能な人生を送る機会を持つ権利であるということが真であれば、その潜在的な権利は発現したまさにその瞬間に破られることになる。はなはだしい障害を持った幼児は、単に権利を持って生まれてくるだけでなく、すでに破られた権利と共に生まれてくるということも[ありうる]のだ(Feinberg 1986)。
つまり我々は生まれながらにして基本的な権利を持つという見方を受け入れるのなら、障害を持って生まれさせられることは、生まれつき権利が破られた形で存在を与えられるという見方もできるのである。このラインに沿った議論としては、Archardの議論がより明確かもしれない。彼は、基本的な権利の多くが破られることを事前に予期できながら、そのものに存在を与えることは間違いであると主張する(Archard 2004)。バースライツとして想定される基本的な道徳的権利とは、最小限のウェルビーイングを保証するために認められる権利のセットである。その多くが破られてしまうということは、最小限のウェルビーイングを保証することが困難になるということであり、例えひとたび生まれれば、その人生が続ける価値のないものにはならなくとも、始める価値がないというのには十分となる。
 これら権利に訴えるアプローチへの反論が共通して延長される先は、生まれた以上は必ず何らかの権利侵害の被害を受けることになるため、この種のケースが道徳的権利の侵害に該当することを認めてしまえば、あらゆる生殖行為が道徳的権利の侵害として間違った行為とみなされなければならなくなるのではないか、というものである(Boonin 2008)。これに対して言うことはもちろん、それが正解である、ということだけだ。Kavkaのような、権利ではなく行為者の態度に重きを置く義務論的アプローチでも同じである。彼は前節で言及した奴隷児のケースなどを念頭に、他者を道具として利用することや、義務を完全に果たすことができない対象を生み出すことは間違いであるという(Kavka 1982)。しかしこれもあらゆる生殖について言うことができる。この点はKant自身が十分に認識していた(Puls 2016)。結局のところ、権利や義務に訴えるアプローチによっても非同一性問題を解消することができるが、この場合も一部の哲学者たちはアンチナタリズム的な結論を受け入れられないでいるだけなのである。

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8 ここでの議論は、いわゆる生まれない権利一般についての議論とは異なる。


5  非比較的なperson-affecting view

前節では、impersonal viewに基づくいくつかの非比較的なアプローチによっても非同一性問題は解消されるということを見た。ここで改めて非比較的なperson-affecting viewに戻って考えてみよう。非比較的なperson-affecting viewは前提(P1)を拡張し、ある行為は誰かを比較的により悪い状態(worse)にするものでなくとも、当人にとって悪いもの(bad)であれば、間違った行為になりうるという見方を取るということであった。形式的に書けば
(P1'): Pによるある行為がQにとって危害となるのは、その行為の結果としてもたらされるQの状態が、Qにとって悪いものである場合である。
となる。生殖のケースに適用すれば、生まれることそれ自体によって苦痛を経験し、かつその原因が生み出すことを選択した親の判断にあるのであれば、親の行為は間違っていたとみなすことができる。
 Tony Hopeは、非同一性問題が問題だと感じるのは、我々の直観が「誤った形而上学に基づいている」ためであると述べているが(Hope 2004)、現実に正面から向き合えていないのはむしろナイーブなperson-affecting viewに固執する方である。改めて、物理的な因果性と、実際に存在を得たものが苦痛を強いられるという経験的知識を適用し、行為の帰結を予測することは基本的な物理的手法である。問題となっている種々の選択が誤りであることを示すのに、形而上学的な仮定は一切必要ない。Feinbergが指摘している通り、例えば人生に苦悩する人が、それ以上人生を続けるより死んでしまった方がマシであると考えるとき、その人は主観的意識を持つ死後の存在といった形而上学的存在を仮定しているわけではないし、我々はそれを理解したうえで、その判断に論理的な誤りがあるとは考えない(Feinberg 1986)。実際、本人にとって耐え難い苦痛を経験しており、そこから逃れる手段が死を選択するほかないとき、苦痛から逃れるためにそれを選択することは本人にとって(少なくともその点において)好ましいことであり、非比較的に良いといえる。Sec.3でも触れた安楽死の例でも同じである。同様に、主観的意識を伴った自分という存在自体が自分自身にとって好ましいものではないとき、生まれないほうがよかったということに不合理な点はない。改めて、Parfitがこの結論を退けた理由は非比較的なperson-affecting viewの結論が前提(2)に反すると考えたからであるが、これも前述のとおり、「始める価値がない」という意味と「続ける価値がない」という意味を正しく区別すれば、その人生に続ける価値があっても、始める価値のない人生を始めさせられたという意味で、本人にとって存在を得たことは悪いことであり、親の行為が間違いであったと言うことができる。そして、このような帰結が十分予測でき、別の選択が可能であるなら、その別の選択をすべきであると何の論理的障害もなく断言することができるのである。
 この非比較的な危害の定義による見方が一般的な解決であるという合意が得られていない理由の一つは、ある行為の結果が本人にとって好ましくない場合であっても、その行為を行わなかった場合よりましであるという場合が考えられるからだ。例えば交通事故で爆発寸前の車の下敷きになっている人を救うために、その人の足を切断するなどの場合である。事故の被害者からすれば、結果的に足を失うことは悪いことであるが、救出のためのその行為がなければ、足を失うよりもさらに深刻な被害を受けていたことが考えられる。これを解決するのがシフリンによる許容可能な危害の原理、あるいはシフリンの非対称性の議論(Shiffrin 1999)である(P1'、P2ともに行為が間違いであることの必要条件であって、十分条件ではないことに注意)。これを考慮した場合、Hanser型の定義
Pによるある行為がQにとって危害となるのは、Pがその行為を行わなかった場合よりも、より多くの不本意な苦痛をQが被ることになる場合である。
がより的確になるかもしれない(Hanser自身の定義はこれとは厳密には少し違う(Hanser 1990))。生殖のケースにおいては、この「より多く」という比較表現によって非存在との比較を想定する必要はない。生殖のケースにおいては「Qが存在を得たことでQは苦痛を経験している。Qが存在を得なければ、Qという存在がそれらの苦痛を経験することもなかった」という事実として解釈すればよい。
 潜在的な存在者の利害を考慮すること自体への反論の一つは、もし将来の存在の利害を配慮する必要があるのであれば、潜在的な存在者が、存在を得て喜びを経験できないことによる損失も考慮するべきであるということになり、結局我々は際限ない生殖を行わなければならなくなるのではないか、というものである。しかしこれも種々の非対称性の議論によって退けることができる。最初にRobertsのVariabilismという見方を挙げることができる(Roberts 2010)。これは、非存在者の利害を考慮すべきであるか、考慮しなくてもよいのか、という二つの立場の中間点を探る議論であり、考慮すべきなのは、実際に存在するもの、および存在することになるものについての利害のみだというものである。Robertsは快を経験できないことも、苦痛を経験することも同様に悪いことであることは認めるが、結果的にあるものが存在を得た場合、そこには実際に苦痛を経験するものが存在することになり、実在する存在の利害に照らし合わせてそれを悪いことであると言うことができるが、存在を得なかった場合には、そこには快を得られないことで損害を被る実在する存在はいないことになるため、悪いことではないというものである。しかし、Robertsの提案より、もっと根本的な非対称性が存在する。それが、Sec.4.3でも参照した純粋な利益と危害を回避することによる利益の間にある非対称性を示すShiffrinの議論(Shiffrin 1999)および、存在を得ないことによって快を経験しないことは悪いことではないというBenatarの議論(Benatar 2006)が説明することである。そしてこれらにより、そもそもmere addition paradoxは問題ではないことも示される9
 これらの議論からも、あらゆる生殖が間違いであるというアンチナタリズムが導かれ、それがこのアプローチに対する主要な反発の原因となっているのだが、ここでいうべきことは、改めてこの結論は正しくかつそれを認めることに問題もないということである。なぜなら、アンチナタリズムを認めることで、どの仮定的定義に基づく意味においても誰かを害する(harm)ことにも、間違った扱いをすること(wrong)にもならないし、全体として負のウェルビーイングを増加させることもないからである(Benatarの議論に対する反論と、それへの返答については see(Benatar 2012, 2013))。

―――――――――――

9 これらの非対称性について詳しくは別記事『ベネタリアン的非対称性の評価の仕方』および『「生まれてよかった」は生殖を正当化しない―シフリンの原理と承認による反論』参照

6  Conclusion

非同一性問題の解決として提案されているアプローチのうち、まず伝統的なperson-affecting viewのみに固執する態度は破滅的な帰結を導くこと、およびアンチナタリズムへの反論としてもその他のより一般的なケースにおける倫理的判断基準としても適切なものにもならないことを説明した。一方で、impersonal viewによるいくつかのアプローチは、非比較的なperson-affecting viewによるものと比較すれば不満足なものではあるが、非同一性問題を解消する解答を示すことが可能であることを示した。そして最終的に、因果性を認め非比較的なperson-affecting viewの枠組みで考察することにより、破滅的な帰結を導くこともなく、整合的な形で非同一性問題を解消できることを示した。
 これまでの議論をまとめたものがFig.3ある。非同一性問題を解消するアプローチはすでに複数存在しているにもかかわらず、それでもこれらのアプローチが受け入れられていない理由は、生きる価値のない人生という言葉の両義性とそれを明示化する非対称性を考慮していないこと、あるいはその先にあるアンチナタリズムという結論を受け入れたくないがために、その区別を受け入れようとしないことである。しかしアンチナタリズムという結論を避けたいのであれば、これら複数のアプローチをすべて退け、かつ破滅的な帰結を導かないアプローチを提示しなければならない。哲学者たちは「言語道断(outrageous)である」(Zuradzki 2013)、「バカげている(absurd)」(Boonin 2008)など、様々な表現を用いてその結論への嫌悪を顕わにしてきたものの、それに対する有効な反論を与えられてはいない。非同一性問題を提起するケースとは異なり、我々がそれを受け入れがたいと感じるということは、それが何らかの倫理原則に反しているということを意味しない。アンチナタリズムは他者の基本的な道徳的権利を侵害することも、何らかの意味で他者に危害を加えることもなく、資源の枯渇やrepugnant conclusionのような破滅的な帰結に導くこともない。一方、生殖という行為は、それらの基本的な倫理概念と、控えめに言っても非常に相性の悪い行為だということが改めて見て取れる。

Fig 3

結局のところ、古典的な非同一性問題は、元々道徳的に間違った行為である生殖の一部のケースのみを都合よく問題視する方法を探るという誤った動機に基づいているために困難を生じさせるのであり、生殖そのものが問題であることを認めればいかなる問題も生じない。そして、アンチナタリズム批判としての「まだ存在していないものの利害について語ることはできない」という主張も、アドホック(その場しのぎ)な議論、あるいは単なるジェスチャーに過ぎない(少なくとも、もしそれがアドホックな議論ではないというのなら、それを一般的諸問題に適用し、Sec.3で示したような破滅的な判断を支持していなければ態度として矛盾していることになる)。そこにある物理的因果を認め、生殖の帰結として苦痛を被る存在が生み出されること、および我々全員が親の生殖によって生み出されているという現実を受け入れる限り、他者を生み出すことは間違ったこと、あるいは生まれることが本人にとって悪いことであるということに論理的な障害は生じない。少なくともアンチナタリズム批判として持ち出される非同一性問題は、単なる「てつがく」的な言葉遊びに過ぎず、現実の問題に影響及ぼす持つものではないのである。

References


Archard, D. (2004). Wrongful life. Philosophy, 79(3):403-420.

Benatar. D. (2006). Better Never To Have Been: The Harm Of Coming Into Existence. Oxford University Press, .

Benatar, D. (2012). Every conceivable harm: a further defence of anti-natalism. South African Journal of Philosophy, 31(1):128-164.

Benatar, D. (2013). Still better never to have been: a reply to (more of) my critics. The Journal of ethics, 17(1-2):121-151.
(この論文の要約は当ブログ記事『それでも、生まれてこない方が良かった ― 批判への返答 by デイヴィッド・ベネター』)

Boonin, D. (2008). How to solve the non-identity problem. Public Affairs Quarterly, 22(2):129-159.

Feinberg, J. (1986). Wrongful life and the counterfactual element in harming. Social Philosophy and Policy, 4(1):145-178.

Hanser, M. (1990). Harming future people. Philosophy & public affairs, pages 47-70.

Harris, S. (2011). The moral landscape: How science can determine human values. Simon and Schuster.

Hope, T. (2004). Medical ethics: a very short introduction. OUP Oxford.

Kavka, G. S. (1982). The paradox of future individuals. Philosophy & Public Affairs, pages 93-112.

Lawlor, R. (2015). Questioning the signifi cance of the non-identity problem in applied ethics. Journal of medical ethics, 41(11):893-896.

Parfit, D. (1984). Reasons and persons. Oxford, Oxford University Press, 1:984.

Puls, H. (2016). Kant ’s justification of parental duties. Kantian Review, 21(1):53-75.
(この論文の要約は当ブログ記事『カントによる親の義務の根拠付け―カントの義務論とアンチナタリズム』)

Roberts, M. A. (2009). The nonidentity problem.

Roberts, M. A. (2010). Abortion and the moral significance of merely possible persons: finding middle ground in hard cases, volume 107. Springer Science & Business Media.

Saarimaki, H., Gotsopoulos, A., Jaaskelainen, I. P., Lampinen, J., Vuilleumier,  P., Hari, R., Sams, M., and Nummenmaa, L. (2015). Discrete neural signatures of basic emotions. Cerebral cortex, 26(6):2563-2573.

Shiffrin, S. V. (1999). Wrongful life, procreative responsibility, and the significance of harm. Legal Theory, 5(2):117-148.

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Zuradzki, T. (2013). Genetic engineering and the non-identity problem. Diametros, (16):63-79.




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