我々は石器時代の方が幸福だったのだろうか?~ユヴァル・ノア・ハラリの記事より
我々は石器時代の方が幸福だったのだろうか?
~ユヴァル・ノア・ハラリの記事より
『Were we happier in the stone age?』というタイトルで『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』の著者として知られるユヴァル・ノア・ハラリが2014年にガーディアン紙に寄稿した記事を取り上げつつ、ダーウィン的生命システムの本質的欠陥と、それに翻弄される個体の葛藤について考察する。
念の為先に言っておくが、ハラリの記事は原始的な時代の暮らしの方がマシだったため、自然に回帰すべきであるというパレオ信仰を持つものへの応援メッセージではない。
ハラリはまず、経済と幸福度の関係について触れる:
個人主義の台頭と集団主義的イデオロギーの衰退と共に、幸福は間違いなく最上の価値となっている。人口の途方もない成長と共に、幸福はこれまでにない経済的重要性も得ている。
この個人主義の台頭と集団主義的イデオロギーの衰退が個人の幸福、あるいはより一般的な言い方をすればウェルビーイングの位置づけを変化させてきたという指摘は極めて重要だと思われる。近年、ようやく我々の個体としての存在の正当性についての有意味な議論が始まった背景として、この点を無視することは決してできない。
そしてほとんどの国は――多くの場合、ハラリが「最も成功した宗教」と呼ぶ資本主義に則って――経済成長に焦点を当てており、その動機を尋ねられれば、それが人々の幸福につながるからと答えるだろう。しかし、ハラリの問いは、本当にそうなのか?ということである。
実際にそうではないだろうとハラリは考えているわけであり、その理由を説明するのがこの記事の主題なのであるが、もう一つ重要なのが「これまで、長期的な幸福の歴史についての科学研究はほとんど存在しない」という指摘である:
学者たちは、政治、経済、疫病、性、食事など、あらゆるものの歴史について研究してきたが、それらすべてが人類の幸福にどのような影響をもたらすかについては、ほとんど問うてこなかった。
この指摘は、苦しみについて学術的な関心が長い間向けられてこなかったというトーマス・メッツィンガーの指摘と本質的に同じものと言ってよいと思われる。メッツィンガーはこれを「認知的な暗点(cognitive scotoma)」と呼び、種々のバイアスによるものだろうと考えているが、苦しみに限らず個体のウェルビーイング一般に関しての関心が向けられてこなかった別の大きな理由は、先ほど述べたように、集団主義的イデオロギーの支配性を乗り越え、個体のウェルビーイングについての考慮がなされ始めたのが、歴史的には実はごく最近であるためではないかと思われる。ちなみにハラリは幸福とそれに対する諸物の持つ影響の無視を「我々の歴史理解の中で最も大きな空白(lacuna)」と呼んでいる。
そういった歴史理解の中で、まずハラリが批判するのが、歴史を進歩の行進であるかのようにみなすホイッグ史観と呼ばれるものだ。この見方をする者たちは、人類は多くの技術と力を獲得してきたため、石器時代と比べ、幸福度もはるかに上昇しているだろうと考える。
しかしもちろんこの見方には問題がある。力と幸福の間に相関があるかどうかは全く明確ではないからだ。
例えば農業の出現は人類の集団的な力を何オーダーも増加させたかもしれないが、必ずしも多くの個人(の幸福)を改善してはいない。
人類はサバンナを駆け回って生活するのに適応してきたのに対し、現代的な生活はそれに合わない動作を多く含むため、過去にはなかった多くの苦痛をもたらしている。そして
農業は社会階層や搾取、そしてもしかしたら家父長制にも繋がる道を開いた。個人の幸福の観点からすれば、「農業革命」は、科学者ジャレド・ダイアモンドの言葉をして、「人類の歴史上最悪の失敗だった」。
農業革命のみならず、男性のエリート以外にほとんど利益をもたらさなかったルネサンスや、多くの技術や思想の交流をもたらした一方で、人種差別に基づく悲劇をもたらした欧州の帝国主義の拡大など、他にも同様の例も挙げられている。
ホイッグ史観と真逆でありながら、同じく大きく間違った見方がある。ハラリがここで「ロマンチック史観(romantic view of history)」と呼んでいるもので、要するに昔はよかった、という見方だ。それも、石器時代にまで回顧してこう考えるものたちもいる。もちろん、例えば様々な病によって多くのものが早期に命を落としていた時代が優れていたと考えるには、多くの事柄を無視する必要がある。
これらに対して、ロマンチックな見方は現代に至るまでは正しかったが、医療技術の発達や、戦争や暴力の減少を挙げ、ようやく現代になって人類は体系的な幸福の上昇を始めたのだという主張をするものもいる。あの楽観主義者スティーブン・ピンカーに代表されるような連中のことだ。
もちろんハラリはこれについても問題を指摘する:
しかしこの見方もあまりに単純化されすぎている。我々が現代のホモ・サピエンスが成し遂げたことついて自分たちを祝福できるのは、他のあらゆる動物たちの運命を完全に無視した場合だけだ。人間たちが病や飢餓から守られることによる財産は、実験室の猿、乳牛、ベルトコンベヤーの上の鶏たちの犠牲を対価としている。過去二世紀に渡り、何百億もの動物たちが工業的搾取の対象となってきた。この残酷さは地球という惑星の歴史上前例がない。
ちなみに、何百億という数を規模の大きさを表す表現ではなく、文字通りに取れば、これは一年の間に人間の犠牲になる動物の数に到底及ばない。
もう一つハラリが指摘するのが、彼らの見ている時間範囲があまりにも短すぎるということだ。
例え過去数十年が先進国における人類にとって比較的黄金時代であったとしても、これが現在の歴史における根本的な転換なのか、それとも幸運の儚い波であるのかを知るにはあまりにも早すぎる。50年という時間は、複数の世代全体を基礎づけるには単純に十分な時間ではない。
当然、現在の黄金期が将来のカタストロフィの種を撒いていたのだと判明する可能性もある。過去数十年に渡り、我々は生態学的平衡を様々な形で阻害してきた。これがどのような帰結をもたらすのかは誰も知らない。我々は向こう見ずな消費の宴の中で、人類の繁栄の基盤を破壊しているのかもしれない。
技術進歩以前は、飢餓や病から身を守る術は少なく、安定的な生活をすること自体が現在よりはるかに困難だった。一方で技術進歩に伴い、健康や安全は確保され、生活の中で多くの選択が与えられるようになってきた。それでもそれらの進歩は格差や、環境破壊などより大規模な問題をもたらしてきたし、人々は新たな娯楽を与えられても満足しない。
このように、ホイッグ史観もロマンチック史観も盲目的楽観主義も的確とは言えない。なぜなら、結局のところ我々の幸福というのは、周囲の環境よりも主観的な期待に依存するためであるという見方が有力である。この性質と、状況への適応という性質によって我々の幸福は大きく制限されているのだ:
…しかし期待は状態に適応する傾向がある。物事が改善されると期待は上昇する。その結果、状態の劇的な改善でさえ、以前と変わらない不満足な状態に我々を取り残すこともある。幸福の追求の中で、人々はよく知れた「ヘドニック・トレッドミル」に拘束されており、益々速く速くと走り続けるが、どこにもたどり着けないのである。
そして、特にポジティブな感覚の方が持続しないということも実証研究で示唆されている。この指摘は、すでにピアースやベネター、あるいはメッツィンガーらの議論の中でも馴染みあるものだろう。この原因が、個体のウェルビーイングを含め、遺伝子の伝播以外に無関心な進化的なメカニズムに由来することについても同様だ。
これらを踏まえ、最後にブッディズム的洞察についても触れられる。すなわち、幸福とはこのように消極的なものであり、幸福の追求は無駄あがきであるだけでなく、より多くの苦しみをもたらす有害なものであるという見方である。幸福の消極的な存在論については、ショーペンハウアーの洞察も参照してもらいたい。
一方で
資本主義のジャガーノート(止めることのできない巨大な力の比喩)にとって、幸福とは快びのことである。以上だ。不快な感覚への非寛容さは年々減少している一方で、快感への渇望は増加しているのだ。
という現実的な指摘の下、ブッディズム的な思考へのシフトとは別のオプションがあることについて述べ、記事は締めくくられる:
人類は進化によって、絶え間ない快楽を経験するよう適応してはいない。そのためアイスクリームによってもスマートフォンによってもそれを実現することはできない。それでも人類がそれを求めるのなら、我々の身体も心も再エンジニアリングすることが必要になるだろう。我々は今それを行おうとしている。
この具体的なアプローチが、ピアースの提唱するヘドニズム的使命であることは明らかだろう。そして、人々の止まらない欲望ゆえに、そういったアプローチを取る他ないという見方もハラリはピアースと共有している。それゆえ、ブッディズムにも関連するエフィリズム的見方ではなく、技術進歩に波乗りする形のアプローチに焦点を当てているのだとも思われる。
どちらにしても、我々は(自然な形での)存在や誕生は好ましいことであるという人類史上最大の勘違いを正していくことに、全力を注いでいかなければならない。
改めて、ハラリのこの記事の内容は本当に素晴らしい。我々が幸福になれないのは、個体のウェルビーイングの観点からすれば、根本的に欠陥のある自然淘汰のシステムに原因があり、過去に遡ろうとも、反対にどれだけ物質的に豊かになろうとも、その拘束条件からは逃れることはできない。そのため、ロマンチック史観もホイッグ史観もピンカー的楽観主義もすべて誤りであることが簡潔に語られている。ホモ・サピエンス中心的な見方についても無視されていない。
記事中に補足と共に関連する記事等のリンクを張っているため、ぜひそちらも参照してほしい。関心をのある人は、より説得力を感じられるだろうぜひ元記事にも目を通してみてほしいと思う。