心の哲学と苦しみ:快苦の非対称性と苦しみの支配性およびアンチナタリズム

心の哲学と苦しみ

―快苦の非対称性と苦しみの支配性およびアンチナタリズム―



これは、意識に関するエッセイ集『The Return of Consciousness. A New Science on Old Questions Publisher: Axess Publishing AB; 1st edition (2017)』にトーマス・メッツィンガー(Thomas Metzinger)が寄稿した章『Suffering(苦しみ)』の要約と抜粋である。

メッツィンガーは心の哲学や、それに関連した倫理学を専門とするドイツの哲学者である。サム・ハリス(Sam Harris)との対談でも語られているように、(あくまで思考実験としてであるが)知能的にも道徳的にも完全なAIはアンチナタリズムを生物にとって最良の選択と判断するという『BAAN:人工知能によるアンチナタリズム』と呼ばれるシナリオも提唱している。

このエッセイは、苦しみとは何かということから、なぜ苦しみが存在するのか、苦しみにはどんな特性があるのか、どうすれば苦しみを取り除くことができるのか、そしてなぜそれらを理解することが重要なことなのかということまで、包括的に扱われている。

彼の苦しみについての洞察の鋭さと表現の的確さには目を見張るものがあり、これが道徳的な最優先事項、あるいは唯一のミッションである苦しみの最小化と根絶の取り組みにおいて、必須な教科書的資料の一つとなることは間違いない。

本来の言い回しが若干堅苦しいこと、および訳が拙いことが原因で、理解しづらい箇所があるかもしれないことを考え、引用の際には、できるだけ平易な解説を伴うようにしたため、気軽に目を通してもらいたい。

注意事項: 元文献からの引用はインデントを変えず、文字の色を青色にして区別する。文字色が区別されない形式で閲覧している場合や、その他なんらかの理由で色の識別が困難な方は注意してほしい



Suffering from The Return of Consciousness. A New Science on Old Questions Publisher: Axess Publishing AB; 1st edition (2017)
Thomas Metzinger



The cognitive scotoma

―認知的暗点―


この章では、苦しみに関する第一かつ基本的な作業概念を提示し、その最小化のための六つの論理的可能性を導き出す。

と始まるように、このエッセイでは、意識に関する哲学という枠組みから、苦しみについてと、それを最小化するための方法が考察される。そして

この序文では、意識的苦痛のいくつかの興味深い現象学的特徴と、苦しみそれ自体が近代の心の哲学と認知科学によって大きく無視されてきたという等しく興味深い事実に注意を向けることによって、一つの可能な文脈を設定する。明らかに意識に関する私たちの思考には、体系的な盲点である「認知的な暗点(cognitive scotoma)」が存在するように思われる。 例えば、医学や精神医学では、多くの実証データがすでに存在しているが、より抽象的で一般的かつ統一された苦しみの理論の探索は、ほとんどの研究者にとって、明らかに魅力的ではない認識論的目標であるようだ。 なぜこれはそうなっているのだろうか?

と述べているように、「苦しみ」という対象がまるで盲点であるかのように、関連する諸分野で注意を向けられてこなかったことも指摘され、その理由も検討される。

The "Eternal-Playlist" thought experiment

―「永遠のプレイリスト」という思考実験―


この節ではまず、思考実験が紹介される。

ある思考実験を考えてみる。死後の人生があったとしよう。この死後の人生は時間的に際限なく永遠に続き、意識的経験はその中に存在し続ける。しかし、あなたが現在生きている人生とは、経験の積極的な主体者として重要な違いがある。すなわち、死後のすべての意識的経験は、あなたが現在の人生で経験した主観的経験のセットから選ぶことを許されたものだけなのだ。―死後には新たな経験はないからである。対照的に、死に至る前には、あなたは数多くの内的経験と意識状態を通して生活していた。その中には映画に行くことや、ハイキングをすること、本を読むことや、ドラッグを使用すること、瞑想リトリートに参加するなど、あなたが積極的に創り出したものもある。私たちは生活のほとんどで、心地よいとか、価値あるものとして経験する意識的状態を何らかの形で求めている。もちろん、私たちは積極的に不快な状態を避けたり、終わらせることに努めたりもする。そしてしばしば、心地よい状態の探求は、単にこの二つ目の目的を追求する道具であることもある。

そうして実際に思考実験として、ある意識の主観的一瞬の単位を取り出し、ランダムに流れる死後の意識的経験の「永遠のプレイリスト」に、どんな瞬間を選ぶか、そして最も重要なこととして、どれだけの瞬間を、真に生きる価値のある瞬間として評価するか、ということを問う。

そして彼は、実際に学生を使って、一日に十回ランダムに被験者の携帯をバイブさせ、その直前の瞬間をプレイリストに追加したいかどうかを評価させるという実験を行っている。結果は、ポジティブな意識経験の数は一週間で0から36と幅があり、平均が11.8だった。これがサンプルのうち31%であるのに対し、69%は追体験する価値がないと評価された。

そして二つ目の実験として、死後の世界と永遠のプレイリストという仮定をなくし、「直前の意識的経験を、この人生で再び追体験したいか?」という質問に置き換えた。興味深いことに、その結果はたった28%強がポジティブに分類され、72%弱が追体験の価値がないと評価された。

もちろんこれは、簡易的な試みであって、有意なサンプルとはならないし、実験自体について理論的に問うべきことは多くある。

しかし、それのもたらした結果は衝撃的であった。一つは、そのスコアの低さが全被験者にもたらした驚きであり、二つ目には、その後に行われた、その現象を説明し払う(都合の良い説明を与えて処理しようとする)試みであった。...多くの被験者が即座に「認知的作話」を始め、自分のした評価を、全く悪いものでないかのように取り繕うとしだしたのだ。

具体的には、「人生で一番大事なのは幸福であるはずがない」とか、「ほとんどの瞬間は良くも悪くもない、中立的なものだ」、「意味があるのはもっと長い時間単位の経験だ」などである。

Narrative self-deception

―物語的自己欺瞞―


もし、機能的に可能な現象論的細かさの最小の内省的レベルで、ある自己意識的システムがあまりに多くのネガティブに価値づけられた瞬間を見出したとしたら、その発見はそれを麻痺させ、それが再生されることを避けるようにするだろう。もし人間生物が個人的な意識瞬間の大半を可能であれば再生しないというのであるならば、心理的発展の論理は、ヘドニック・トレッドミルに拘束された自己モデリングシステムから、その事実を隠すことを命じるだろう。

ヘドニック・トレッドミルとは、幸福度は一時的に上がっても下がっても、しばらくするとまたあるセットポイント(基準点)に落ち着き、ある程度の時間は幅で平均すれば、人は基本的にはほぼ一定の幸福度でいるという性質であるが、つまり、その基本的な状態がほとんどネガティブな状態に支配されているというのなら、人間の心理的メカニズムは、自分でそれに気づかないように(意識しないように)隠ぺいしてしまうだろうということだ。そしてこう鋭く指摘する:

おそらく、これこそまさしく、日々の暮らしの醜い細部を、大げさで非現実的な楽観的内部ストーリー―「物語り自己モデル」を発展させることで美化する適当な自己欺瞞を構成し、生物を絶え間なく前進させるという人間の自己モデルの高次のレベルの主要な機能であろう。

そして、このような仮説を提唱する:

成功するどんな主体者も、自発的な動機付けが可能でなければならない。この自律的動機付けの問題への一つの解決策は、私が「自筆的ゲシュタルト形成(autobiographical Gestalt formation)」と呼びたいと考えているものである、より大きなタイムスケールへの自動的逃避によって構成されるかもしれない。進化は、現在が退屈であったり、単純にあまりに不快となったりした途端、自動的に自分の境界を拡大する自己モデルを生み出してきたのだろう。…この投機的仮説を「物語的自己欺瞞」と呼ぼう。もしこのようなことが事実であったなら、学術的哲学や、また科学においても、観測可能な影響を持つことが期待できるだろう。

つまり、進んだ認知機能を持った私たちのような存在は、現在が退屈だったり不快感だったりするとき、認識の時間幅を広げる自己モデルが進化的に与えられており、それによって自らを動機付けることができるのだろう、というのだ。

そして改めて、苦しみと言う問題が広く考慮されてこなかったことを指摘し、その理由を考察する:

おそらく現在の心の哲学における第一の理論的な「盲点」は、意識的苦しみであろう。色の「クオリア」やゾンビについては何千ページも割かれてきたが、退屈や、素朴心理学的に「日々の悲しみ」として知られる亜臨床的な鬱、そして身体的痛みによって生じる苦しみなどの、遍在する現象的状態についての理論的研究はほぼされていない。 …なぜこのような形態の意識的内容は、概して今日の最良の心の哲学者たちによっても無視されてきたのだろうか?単純にキャリア主義(どれだけ洞察的で重要でも、苦しみについて誰もたくさん読みたくない!)や、あるいは私が「認知的暗点」と名付けた、より深い進化的理由によるものなのだろうか?

ここで焦点があてられるのが、いわゆる「存在バイアス(existence bias)」である:

自己の必滅性について、経験的洞察を入れてみよう。…ここに、より深い問題が潜んでいるかもしれない:私たちは可能な限り効率的に生殖し、その存在を存続させられるように、何百年にも渡り最適化されてきたシステムである。このプロセスにおいて、私たちの自己モデルには数多くの認知バイアスのセットがインストールされてきた。最も根深い認知バイアスは「存在バイアス」である。これは、私たちは存在を延長させるためなら、単純にほとんどなんでもするということを意味している。

これは、単に習慣を変えたくないと考える傾向とは異なるという説明が続く:

私の意図は社会心理学や人格心理学で「現状維持バイアス」の類として議論されるものより先にある。それは、私たちは常に自分自身の存在を維持しながら、ほとんど常に、生命のプロセスを持続し保護するように選択するという事実を指している。しかし、私たちの真新しい認知的自己モデルは、この生物の予測的境界はゼロに収縮するということが避けられないということ、つまり個人としての「最も確かなアクシデント」が起こらざるを得ないということを教える。これは、私たちの内的環境内に、適応しなければならない新たな状況を作り出す。これは、潜在的に恒久的な内的葛藤を生じさせる、具体的で新たな種の苦しみを含んだ挑戦である。したがってこの点は、自己意識的な人工的システムの将来的苦しみの可能性について議論するときに改めて出くわすことになるだろうより深い問いを生み出す。それは、存在バイアスを持たない意識的知性は存在し得るか?という問いである。

つまり、存在バイアスに、境界のゼロへの収縮、すなわち不可避な「死」という事実もあいまって、新たに複雑な内的葛藤が生み出される。

そして、その内的葛藤についてさらに触れられた後、改めてもう一つ重要な指摘がなされる:

しかし、必滅性を否定する私たちの絶え間ない内的闘いは、導入的なほんの一例に過ぎない。私たちの惑星上の生物システムにおける進行中の現象論について検討してみれば、様々な意識的苦しみが、少なくとも、例えば色視覚の現象論や意識的思考の能力とは同程度に支配的になっていることがわかる。色を意識的に見る能力は、進化的時期としては非常に最近になって現れたものであり、複雑かつ秩序的な抽象的事柄を意識的に思考するという能力も、人類の出現によってようやく生じたものだろう。しかし、痛み、パニック、嫉妬、絶望、そして死への恐怖は、それよりも何百万年も先に、はるかに多くの種の間で生じたものである。14

14量的に、実践的に想像可能な尺度を用いて語れば、野性動物の苦しみは、人間の苦しみや、工業畜産などによって人間によって他の動物に及ぼされる苦しみより、何オーダーも大きい。例えば B. Tomasik, ‘The Importance of Wild Animal Suffering‘, Relations: Beyond Anthropocentrism, vol. 3, no. 2, 2015, pp. 133-52. DOI: http://dx.doi.org/10.7358/rela-2015-002-toma など参照

Suffering

―苦しみ―


ここからは、苦しみという概念について具体的に定式化され、またそれをどのようにすれば取り除くことができるのかが語られる。

抽象的概念レベルにおいて、この分類のマーカーとして働く二つの現象論的特性を提唱することから始めたいと思う。それは、(表象内容の「心理的」レベルや「身体的」レベル両方での)制御の損失と、自己の崩壊である。

私たちが自己と認識するものは、統合された一体の生物体と感じるPSM(現象論的自己モデル)によって成り立っている。苦しみのようなシグナルは、その統合性の危機を知らせるためにあると考えられるが、苦しみの多くの形態は、身体的であれ、鬱や神経症などの認知的なものであれ、自己の制御を失うものとして表れるということが説明される。

続いて、その苦しみが生じるための必要条件が検討される。

The C-condition: conscious experience

―C条件:意識的経験―


最初の条件として、意識的経験が可能であることが挙げられる。それがC条件である。

The PSM-condition: posession of a phenomenal self-model

―PSM条件:現象論的自己モデルの所有―


続いて、意識だけではなく、苦しみの所有の感覚が必要であることが述べられる。つまり、その苦しみを経験しているのは、自分である、という感覚が必要であるということだ。また反対に、その望ましくない状態を自己から容易に切り離せないことに、苦しみの機能があるという。これがPSM条件である。

ここでまた、引用すべき重要な点が語られる:

その点を理解すれば、この惑星の生物進化のプロセスで意識的苦しみが「発明」されることが、なぜか極めて効率的なことであったのかということもわかるだろう。それは、大域的利用可能性の機能レベルまで持ち上げることで、不確定性さを能動的に最小限にすることをサポートし、同時にそれを個人的な一人称的観点に結びつける。苦しみは新たな因果的力になるのだ。なぜなら、それは生物を動機付け、絶えず前進させるように駆動するからである。...あるレベルの複雑さを越える所で、進化は絶え間なく途方もない量の満足されない選好を生み出してきた。それは、以前にはそれと同様ものは全く存在しなかった物理的宇宙の中のある領域に、拡大し深さを増し続ける意識的に経験される苦しみの海をもたらしてきたのだ。

簡単に言うと、基本的なレベルで苦しみはすべて、文字通りの苦痛現象である尻に放たれる火として生物を駆動してきたが、それが(比喩的に遺伝子の利害に照らして言えれば)明らかにとても有益であるために成功し、その結果生物世界はそこら中燃え盛っているということだ。

The NV-condition: negative valence

―NV条件:ネガティブな価値づけ―


しかし、所有感覚だけでも十分ではない。それは、苦しみを望ましくないと感じる価値判断が必要となるからだ。システムそれ自体が、その好ましくないという感覚を概念的レベルなり、認知的なレベルなりで完全に理解している必要はない。ただ、それを経験したくない、という感覚が必要となる。

The T-condition: transparency

―T条件:透過性―


次に必要なのが、T(透過性)-条件である。ここで彼が言う透過性とは、情報がそれを介して到達する媒体それ自体を、私たちは認識できない、という性質を意味している。つまり、私たちは統合された自己モデルそれ自体を認識することはなく、すでに認識的に構成された世界のみが「私たち」に提示される。そしてまた、透過的現象状態によって、その表象内容が疑いもない現実であるように思われるようになる。

もちろんここで明示した4つの条件全てが必要であるが、「私が存在することは間違いなく、私はこれと同一のものだ!」という自己報告によって表現される非常に具体的な現象論を理解するには、PSM(現象論的自己モデル)-条件とT(透過性)-条件が同時に満たされているということが中心的になる。

そして、これらの理論が、人間の倫理に限らず、動物倫理、ロボットの倫理などにおいても重要になってくるということが語られる。そして最後に続くのが、ではその苦しみをどうすれば取り除くことができるのか、ということである。

Six logical possibilities to minimise suffering

―苦しみを最小化するための6つの論理的可能性―


ここで、改めて幸福の増大より苦しみの削減の方がはるかに倫理的に適切な焦点であるということ、また彼の見方としては、具体的にネガティブ功利主義を倫理的土台に据えるべきであるということが語られる:

充足された選好より、充足されていない選好の方が倫理的に適当であるという理由から、幸福を最大化することよりも、苦しみを減らすことにはるかに大きな重要性があるという議論されていない背景的前提を提示する。ネガティブ功利主義(NU) によれば、私たちは苦しみを最小化することに専念すべきであるとされる。それは、ポジティブに価値づけられた状態とネガティブに価値づけられた状態の間にある深い現象論的非対称性のためである。私が提唱するように、仕切り直して、意識的苦しみのトピックを現代の心の哲学や認知科学のターゲットに変更するべきであるなら、私たちは幸福と苦しみの間にあるその非対称性を裏付けて確証し、はるかに詳細に記述することができるようになるという大きな見込みが持てるだろう。もしそうであるなら、これは、メタ倫理的立場として、NU(ネガティブ功利主義)を選択する一つの理由になる。

そして、前節で与えられた4つの必要条件を受け入れたうえで、具体的にどのようにして苦しみを最小化することができるから検討される

Option 1: ending existence

 -選択1:存在をやめる


最初の選択は明らかな話で、存在をやめれば新たに苦しみが生じることもないということだ。だがもちろんこれは口で言うのは簡単でも、現実的には有効な選択肢ではない。

...しかし、ネガティブ功利主義者は効果的に苦しみを最小化することにコミットしており、もし特定の集団を実験対象とした場合、その集団からの合意や協力に依ることになるだろう。そのとき、対象としている集団を特徴づける特定の認知バイアスが適用される最適な度合いを探るかもしれない。例えば、より穏やかバージョンとして、すべての現在既知である有感生物にとって最も根深い認知バイアス―存在バイアス―や、それに加え、透過的自己モデルはこのバイアスを表現するだけでなく、自身を簡約化不能な個という存在として、分割不能な全体として意識的に経験することを強制するものであるという事実は尊重すべきであると言うことができるかもしれない。

つまり、彼らの個体としてのアイデンティティの根源的な部分は尊重すべきとなるかもしれない、ということである。そこで次に提唱されるのが、アンチナタリズムである

よってこの穏やかなバージョンは、すでに生まれた全ての自己意識的生物システムにとっての存在する権利は尊重すべきであるが、将来的に知覚のあるものが存在を得ることを回避することだということになるかもしれない。これらの論理的選択肢は、もちろん哲学的思考の中で何世紀にも渡り探求されてきた。そしてそれは現在頻繁に「アンチナタリズム」として言及されるものに繋がっている。

ここで、例のBAANシナリオに関連する話がされるが、ここでは割愛しよう。

Option 2: eliminating the C-condition

 -選択2:C-条件を取り除く


二つ目の選択肢も単純なもので、なんとかして意識そのものを消去してしまうというものだ。

Option 3: eliminating the PSM-condition

 -選択3:PSM-条件を取り除く


三つ目は、PSM-条件を取り除き、苦しみが自己のものであるという認識をなくすことによる解決である。

三つ目の選択肢は、例えば25世紀に渡る仏教哲学によって、深く探求されてきたものである。

Option 4: eliminating the NV-condition

 -選択4:NV-条件を取り除く


これは、自己意識ではなく、主観的選好を取り除くというものだ。ここで改めて、ネガティブに価値づけられた選好について深い洞察が与えられる。少し長いが十分引用する価値がある。:

...苦しみの現象論は、遥かに高い変化への切迫性を持つことを主な理由として、単純な幸福の鏡像とはならない。ほとんどの形体において幸福は、私が「変化への切迫性」と名付けた、この中心的関連性を持つ主観的質を欠いている。それらは、さらにも増して幸福になることへの強い選好を全く含まないからである。実際、私たちが「幸福」と表現するものの多くは、その変化への切迫性からの緩和のことである。この切迫性の主観的感覚が―制御と現象的自己の一貫性を失うことの現象的質と組み合わさることによって―、意識的苦しみを単なる幸福のネガティブなバージョンではない、非常に際立った種の状態とするものである。切迫性のこの主観的質はまた、倫理的な意味で、幸福な人をより幸福にすることより、苦しんでいる人を救うことにはるかに高い切迫性があるという広く受け入れられた道徳的直観に反映されている。

また、別の頻繁にある誤解について述べ解消することもできる。人間の苦しみが劇的な苦しみであることは稀である。ほぼすべてのネガティブに価値づけられた状態は、選好の不満足の穏やかな情動的感覚―おそらく、何らかの身体的ウェルビーイングの弱い減少や、退屈の冗漫な背景感覚に、未来への不特定で一般化された不安に、とらえがたい不確定性の現象論が合わさったものが伴っただろうもの―である。加えて、これらの頻繁で、かつ非常に微妙にネガティブな状態が、私たちの意識的自己モデルの各瞬間の大部分を構成していると想定するのはもっともなことであるため、私たちのほとんどは、遠い昔に、それらを不可避で制御できないものと認識し始めるようになったのかもしれない。よって私たちは、自身の苦しみに関する学習された絶望の「領域一般(domain-general)」なバージョンの下で稼働するのかもしれない。つまり私たちは、深い機能レベルですでに、それらが生じる全確率を効果的に制御することはできないと信じているため、そのような内的状況に遭遇することを回避することができなくなる、あるいは回避しようと望まなくなるのだ。その結果として、私たちはネガティブな日常的現象論のより些細な形態を避けるための行動を起こさなくなるのである。

したがって、私たちが「中立的」状態と早まって報告するものは、実際には、些細な選好の不満足による内的経験に学習された絶望を合わせたものであることが多い。私たちは「中立的」と報告するが、実際に私たちが意味しているのは「デフォルト」であるということだ。注意深く内観してみれば、真に中立的な瞬間というのは極めて稀なものであるはずだ。それは、私たちの意識的瞬間のほぼすべてに、何らかの価値づけの影響が伴うからである。快強度ゼロかつ苦しみもゼロというのは稀な状況を示しているが、NU(ネガティブ功利主義)の下では、完璧かつ望ましい意識経験の状態である。哲学の歴史において、そして多数の理論的形態をもって、NV(ネガティブに価値づけられた)-状態を取り除く方法について考えられてきた。究極的なゴールは、明晰かつ堅固な平静状態に達することであった。それは、古典的な哲学的概念であるアタラクシアウペクサー(捨)などで例示されるような、熱情によっても乱されない平静状態のことである。

彼の述べていることを簡約化するとこうである:

  • 幸福の増大とは違い、苦しみの除去には強い切迫性があるために道徳的な優先事項となる。
  • そもそも幸福とは、その苦しみの持つ切迫性からの解放でしかないことが多い。 
  • 苦しみというのは、人が自分で思ってる以上に支配的に存在しているものである。
  • 私たちが「中立的」と考えてるものは、実際は注意深く考えてみれば、微妙にネガティブな状態である。―些細な身体的不快や、退屈、未来への漠然とした不安などが遍在しているからだ。
  • しかし、それをどうにかすることもできないため、私たちは無意識的にその些細な苦しみを回避する意志も持たなくなる。
  • よって、その「絶望」をデフォルトに組み込み、それが中立の基準だと思いこむため、普段どれだけ苦痛に支配されているのかに気がつかなくなる。
  • そしてもし、実際に快も苦もない状態を経験できるなら、それこそネガティブ功利主義的に言えば最良の状態である。


Option 5: eliminating the T-condition

 -選択5:T-条件を取り除く


五つ目は、自己意識それ自体を取り除くのではなく、同一性の現象論のみを取り除くというものである。その場合の自己モデルは透明ではなくなり、同一性の単位(UI: units of identification)ではなくなる。

つまりその場合、自己という感覚を失い、苦しみを経験することは出来なくなる。

Option 6: maximizing the UI

 -選択6:UIを最大化する


最後の可能性は、UI(同一性の単位)を最大化するというものだ。簡単に言えば、自己と言う統一性をより大きな単位に拡大してしまうことで、意識の主観-客観という構造も溶解してしまうということである。



以上が、トーマス・メッツィンガーによる『Suffering(苦しみ)』の要約と抜粋である。本来であれば全編訳してしまいたいところでもあるため、随時加筆していくかもしれないが、少なくとも、最低限目を押しておくべき点は抜き出せたと思う。

メッツィンガーが前提としている認知理論についてより詳しくは、彼の著書『The Ego Tunnel: The Science of the Mind and the Myth of the Self 』を参照することをお勧めする(訳書も出版されている:『エゴ・トンネル 心の科学と「わたし」という謎 』)。


~K-Singleton


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