カントによる親の義務の根拠付け―カントの義務論とアンチナタリズム

カントによる親の義務の根拠付け

―カントの義務論とアンチナタリズム―




これは、Heiko Pulsによる論文『Kant’s Justification of Parental Duties』の要約と抜粋である。

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Kant’s Justification of Parental Duties

Heiko Puls

Kantian Review / Volume 21 / Issue 01 / March 2016, pp 53 -­ 75 DOI: 10.1017/S1369415415000308, Published online: 01 February 2016



Abstractはそのまま引用する:

Abstract


カントは彼の応用倫理学において、自分の子供を幸福にする親の義務を定式化した。私は、カントにとってこの義務は、親が自身のイニシアティブにおいて一人の人間を存在状態に持ち出したこと―そして、したがってその人の幸福への必要を生み出したこと―についての親の罪を埋め合わせるアドホックな義務であると議論する。私は、親の義務と人間の生殖に関するカントの考察は、概して倫理的に正当化されたアンチナタリズムを示唆するが、この見解はメタ倫理的理由から、彼の目的論からは排除されているということを議論する。

1. Introduction


先行研究では、カントは、親が子供をケアする義務を、その子供の同意を得ることなく生み出しているということを理由に根拠づけをしているが、そのアプローチ自体の根拠づけは行っていないと主張されている。

著者は、生殖に関する倫理についての考察から、カントはその根拠づけを行っているということをこれから議論すると述べる。

2. An Analysis of MM, 6: 280–1 in the Light of the Nachlass and Vorlesungsnachschriften


カントは、「親は子供を幸福にする義務がある」という強い義務の存在を主張した。そして、その義務の根拠として、生殖の道徳的問題性を指摘している。

カントによれば、生殖は親の自由な選択によるものだとされる。そして、生み出される子供は、性行為により新たな人間を生み出す人間の能力の「効果」だとされる。

しかし、子供を幸福にする義務というのは、カントの別の主張とはそりが合わない。カントは一般に、他者の幸福を促進するという義務を主張しており、かつ、幸福の実現は多くの制御不能な要因に依存するため、かなり制限されるとも述べている。さらに、原理的に達成可能なことしか義務付けることはできないとも記述している。

では、改めてなぜ、通常の他者に対するものをはるかにしのぐ義務が、親から子に対するものとして生じるのか?

一つ目の理由としてこう説明される:

自由な行為によって人が人を、存在という状態を持たないものから状態を持つものにする。これにより、その状態を持つことになる人から生じる必要を満たす責任が生み出される。厳密にいえば、親はその子の必要を生み出すわけではないが、人として必要を持つようになる子供を承知の上で生み出すのだ。

...その子は、必要を満たすことを、例えば叫んだり泣いたりすることで要求する。もし親が子を飢えさせたり凍えさせたりしたら、私たちはそれを犯罪とみなすだろう。...子供を幸福にしないといけないという義務に関する議論も、これと同じ根拠づけの構造をしている。

そして、特別な義務が生じる理由として以下のような例が説明される:

トラックにはねられた歩行者を目撃したら、誰でも被害者を助ける義務が生じるだろう。しかし、はねたトラックの運転手自身は、その一般的な義務よりさらに強い義務を持つことになる。

この危害の原因として、そこから生じる潜在的必要を埋め合わせる義務を持つのだ。...これが、カントが自分で生み出した子供を幸せにする親の義務について語る際に意図したことである。

しかし、これまでも述べられたように、カントのいう親の義務は、カント自身の枠組み内で見ても、かなり無理のある要求である。よってこれは、最大限に強い義務であるということを意味する比喩的な表現だと解釈される。しかし、そうだとしても問題は多く残る。だがどこまでのことが親に要求されるのかなども含め、それ以上のことは全く述べられていない。

改めて、この強い義務が生じる根拠は、生殖が一種の罪であるという認識にあると思われる。そしてカントは、親と子の間の義務は、親から子に対する一方的なものであるという。

...存在は必須ではない。そしてまた、それ自体が幸福なものでもない。全くな不幸になるために、人は存在を得ないといけない。(LM, 27: 1412)

...カントはこの非対称性の理由を、存在は「必須の」ものではないという事実にあると考えるのだ。すなわち、人は必然的に存在するわけではないと。(いわば、いかなるディスアドバンテージも持つことなく)存在しないことも可能であった。


そして、存在を与られることにより、潜在的な害も与えられることになる。

存在は、子がそのために親に感謝するようなアドバンテージではなく、多くの必要によって特徴づけられる状態である。カントは別のところで明示的に強調しているように、存在を与えられることは恩恵ではない:


子にとって、親が彼の物理的存在の原因であるという事実から、愛を持つ理由は生まれない。この事実は、感謝を生じさせる恩恵ではない。(LV, 27: 670)

よってカントは、親の権利を債権とした。カントが、親の強い義務の根拠としていたのは、このような生殖についての否定的な見方であった:

カントはこう記している:「これが、誰か別のものの権利によるものではない罪(guiltiness)の一例である」。そして、彼は「子に対する親のその義務は、罪による厳格な義務である」と述べる。罪による義務として、親の義務は他者に対する義務をはるかに超えたものになるのだ。


3. A Sketch of Kant’s Pessimism about Happiness and his Justification of Parental Duties


カントは世界についてペシミスティックな見方をしており、理性的なものであれば誰でも、人生の最後に自分の人生を再びやり直すことを望んだりはしないだろうと述べてる。また、存在せず苦しむ能力を持たないことは、潜在的な苦痛をはらむ存在よりも優れているという考察もしている。

カントのこのペシミズムは、快楽主義に対するものであるという反論も考えられるかもしれない。幸福とは、自由の実現など、より洗練された次元を持つのではないかとも考えられ、実際にカントはこのような選好主義的な幸福についても記述している。

しかしそれでも、これはカントの深いペシミズムへの反論とはならないという。

カントのいくつかの記述は、幸福のこの側面についても彼のペシミスティックな評価が適用されるということを示している:


すべての人は、この世界における自分の運命について計画を作る。会得したい技術や名誉、そしてそれによって期待される将来の余暇、結婚生活の持続的な幸福、喜びや冒険の長い道は、鮮やかに続く想像の中で照らす魔法のランタンが映し出す像を構成する。この影遊びを終わらせる死は、暗い距離の先にしか現れず、それよりも喜ばしい場所に投げかけられた光によってぼやけさせられ、認識できなくさせられる。これらの夢想の間、私たちの真の運命は全く違う道に私たちを導く。実際に私たちに与えられることになるくじが、私たちが自身に約束したようなものであることはほとんどなく、私たちは、一歩ごとに、自身の見込みに欺かれていたことに気づかされる。それでも、想像力は自らの働きをやめることなく、依然として遠くにあるように見えながら、突然そのゲームの全てを終わらせることになる死が訪れるまで、新たな計画を描き続けるのだ(VS, 2: 241)。

よって、幸福のこの選好主義的な側面に関しても、カントはペシミスティックな見解を弁護してる。「俗世界の状態」のこれらの側面は、改めて存在することを望ましくないものにする。



4. A Kantian Ethics of Procreation


これまで、カントが親が子へ強い義務を持つということを正当化するのに、少なくとも部分的に、親が率先して、生殖によって不幸が幸福を上回るような状態に子供を置くことの罪を理由にしていることが議論されてきた。

さらに、ベネターも指摘しているように、子供自身のために子供を作ることはできず、将来的な子供は必ず目的ではなく手段として取り扱われるため、人を手段ではなく目的として扱わなければならないというカント的な原理に従っても、生殖は倫理的に問題があると思われる。

そしてカントは明示的にこのことを議論していないが、その問題に気づいていたと思われる:

親は生殖によって、自分たちのイニシアティブで同意なく子に存在を与えるということが述べられている法哲学の有名なパッセージで、生殖によって将来の子供が潜在的に道具化されることの問題が仄めかされている。カントがここで用いているドイツ語のeigenmächtig (自らのイニシアティブによって)という用語にはネガティブな含みがあり、しばしば「他者の責任や権利を顧みることなく」という説明がなされる。親自身のイニシアティブと生み出される子の同意の欠如に言及しているということからも、カント自身、子供は本人のためではなく、単に親の行動や意図によって生み出されるだけだということの問題に気づいていたことが確かめられる。

しかし、カント的な生殖の倫理を再構成するには、他にも考慮すべき点があるという。それは歴史と目的論についての文脈である。

カントは目的論的な次元によって、生殖に間接的な道徳的役割を帰属させる。つまり、それは個人の道徳的完全性をもたらすことや幸福の増大をさせることはしないが、人類全体の道徳的完全性をもたらすというのだ。

このように、異なる観点を導入することで、生殖についての異なる倫理的評価を可能にしようとする。

しかしこれについても

カントは目的論的解釈は、個人はやはり、本質的に目的ではなく手段として利用されるという問題のある考えを含んでいるという事実に気づいていた。

という。それでも

カントは、個人の苦しみや、客観的に見て、目的があるとは思えないような歴史の流れにも関わらず、意義深い人類の存在という考えに固執する。世界の反決然的性質や人間存在への障害を考慮したうえでも、彼は人類が存在しない方が良いとは結論付けない。むしろ彼は、反省的判断の方法によって、世界を人間の手段の決定と自己理解に調和するシステムとみなす。それによって、人類は自分たちの存在が無意味ではないという希望を持ち続けることができるのであり、新たな人間の創造はこのプランに属するのだ。

5. Conclusion


結論とまとめはこうだ:

  • カントは、親は子供を幸福にしないといけないという義務を持つと考えた。
  • カントはこれを、生殖は子供の同意を得ることが出来ず、親が自発的に行うことであるという理由で、この義務を正当化しようとする。
  • しかし、人が持ちえる義務は、他者の幸福を促進する義務だけであり、幸福にする義務、というのは強すぎる。
  • カントはまたペシミスティックな見方を抱いており、人間が幸福になれる見込みはとても低いものだと考えていた。
  • 幸福の実現は自分でコントロールできない状況に依存するため、可能性の低い偶然に依存するものである。
  • 理性的なものであればだれでも、自分の人生をリピートすることを望むことはないだろうと結論付けている。
  • 存在は贈り物というよりもむしろ重荷であって、そのような状況に存在を与えられることは親に感謝すべきことではないため、親と子の間には義務の非対称性が生まれるとも考える。
  • 子供自身のために子供を作ることはできず、生殖は人を手段ではなく目的として扱わなければならないという考えに反する。
  • カントは、生殖によって親が子に害を与えるという可能性についてすら言及しており、したがってカントの考察は、生殖は道徳的に問題がありうるということを示唆している。
  • しかしそれでもカントは、目的論的観点から人間の生殖は正当なものであることを望んだ。
  • 生殖は、人類の道徳的完全性に奉仕し保持するという間接的な道徳的機能を持つとさえした。

そして最後は

このようなアンチナタリズム的見解は、人間の生物的性質、日常の直感、そして中心的倫理基準に反する方向に導くことが想像されるが、目的論的基盤を持つメタ倫理的観点からすれば、カントがこのような見解を受け入れることを拒むもっともな理由があるということを議論した。しかしながら、彼の考察にはこのような見解を支持するかもしれない主張が含まれてもいる。子を幸せにするという率直に言って履行不能な親の義務についての彼の根拠付けが、結局のところ、生殖には、深刻な倫理的疑わしさがあるという考えに基づいているということは間違いない。

と締められる。

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参考文献や脚注等含め、詳細は元論文を参照

~K-Singleton


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