同じ病、異なる症状―インターセクショナル・ビーガニズムという治療法
同じ病、異なる症状
―インターセクショナル・ビーガニズムという治療法―
近年、ビーガニズムの啓発運動が盛んな国々では、インターセクショナル・ビーガニズム(Intersectional Veganism)という概念が関心を惹いている。種が異なるという理由で他者の利害を不当に扱う種差別だけではなく、セクシュアル・マイノリティへの差別、性別による差別、人種による差別、障害による差別、何らかの地位や階級による差別など、様々な対象を交差的に扱い、あらゆる形態の抑圧や差別の撤廃を訴えて行こうというものだ。
インターセクショナリティの背景と、ビーガニズムとの関係
元々インターセクショナリティ(Intersectionality)という概念は1980年代に法学者であり、黒人フェミニストであるキンバレー・クレンショー(Kimberlé Crenshaw)によって、社会正義運動に導入されたものである。そこには、当時のフェミニズム運動は白人に支配的なものであり、同時に市民権運動は男性によって支配的に行われていたという背景がある。この事実は、現在フェミニズムは「人間の女性」の地位についての運動であると、フェミニストを自称するものを含めた多くのものがナイーブに考えているが、かつてはそうですらなかったという意味も含んでいる(そして現在でもすべての人間女性に配慮が達しているとは言えないという意味で完全にそうなってはいないし、そもそも人間の女性に限定されるものではないという意味で、今後もそうではない)。
インターセクショナル・ビーガニズム団体であるCollective Freeによるアクション。日本語字幕が選択できます。ぜひご視聴を。
この概念が私たちに提示する明らかなメッセージは、すべての差別や抑圧の根は同じものであり、最終的に私たちがすべきことは、その根を取り除くことだということである。しかしビーガニズムがインターセクショナリティという枠組みを採用するのは当然のこととも言える。そもそもビーガニズムの定義
食品や衣服、その他いかなる目的のためであっても、動物に対するあらゆる搾取と残酷行為を、可能で実践できる限り排除する生き方
に、ヒトでない動物に対象を制限するということは含まれていない。ゲイリー・フランシオン(Gary L. Francione)の提唱する廃止論的ビーガニズムは、この点をアプローチにおける原理の一つとして明示している:
廃止論者は、種差別と同様に、人種差別、性差別、異性愛主義、年齢差別、障害者差別、階級差別を含む、あらゆる形態のヒトに対する差別を拒絶する。
そして、ビーガニズムには、最近より多くの注意を向けられるようになってきた畜産業従事者の問題も元々含まれている。日本での部落差別と畜産業の関係は良く知られているが、海外でも畜産業従事者の多くが貧困者や移民など社会的抑圧を受けやすいものであったり、畜産によって生じる糞尿処理施設が貧困層の居住地区の近くに偏って設置されていたりするなど、畜産問題は直接人間間の不正義にも関連している。そのため、ビーガニズムは人間の解放でもあるという見方を強調するものもいる。
道徳的配慮とは何に対する配慮なのかといえば、それは対象者の持つ利害への配慮である。そしてその利害の第一に正当な基準となるのは、ネガティブな主観的経験(≃苦しみ)である。 苦痛を感じる能力を持つものであるなら、それらが何という種に属しているのか、どれほどの知性を持っているのかなどとは無関係に、基本的な配慮を受ける道徳的権利を持つ。技術的進歩によっては、無機的な存在でさえ、その権利を獲得しうるかもしれない(そのような事態には決してなるべきではないが)。
差別とは、それらの無関係な要素を理由に、道徳的配慮をネグレクトしてしまうことに他ならない。インターセクショナル・ビーガニズムは、そういった意識を再確認し、異なる症状ごとに、別々のものとして対処されてきた同じ病を、ともに力を合わせて根元から取り除こうとする努力である。
インターセクショナリティの問題
しかし、インターセクショナリティをナイーブに採用することには弊害もある。それは、元々その概念が導入されたフェミニズム界隈で生じている問題を見ればわかる。
例えば、移民の男性による性犯罪や、フェミニズムの広告に利用すべき人物の特性、経済状況と女性の職業選択の自由、これらのような、どの観点を優先し、どの程度の間接的影響まで考慮して判断を下すべきなのかを決定するのが困難な問題に対しても、取るべき態度が大きく制限されてしまうという問題が生じてしまうことがある。
具体的な見解を示せば、そこで利害の衝突が生じている一方の特性を持つ側をひいきしているとみなされ、また明確な態度を示さなければ、インターセクショナル・フェミニストとして責任を果たしていないとみなされるなどである。
そして実際にビーガニズムにも、インターセクショナリティという概念が、この悪しき側面ごと一緒に輸入されてしまったと思われる案件もすでに生じているようだ。
そのため、インターセクショナリティを掲げる際には注意が必要である。より賢明なのは、インターセクショナリティを互いの脚を縛り付ける紐としてではなく、目指すべきゴールを指し示すコンパスのように、それぞれが独立に持つ指針として採用することではないかと思う。
レイプされた牛の体液を摂取しながらフェミニストを自称したり、犬と牛の間に道徳的な差異はないからと反差別を訴えながら、日本人と韓国人や中国人の間には大きな差異があると信じているようなものは明らかに大きな道徳的問題を抱えているが、フェミニズムを訴えるのにビーガニズムの功利主義的アプローチを支持するか権利論的アプローチを支持するかを明確にする必要は全くないし、ビーガニズムを推進するのに移民問題の細かな部分に明確な見解を持っている必要はない。
重要なのは、上にも述べたように道徳的配慮とは苦しみに対する配慮であり、それらが何というカテゴリに分類されるものであるかとは無関係に、他者に明らかに不要な苦しみをもたらすことは悪であり、無関係なカテゴリを理由にそれを正当化しようとすることは差別であるという認識である。
インターセクショナリティという概念は、ビーガンでない社会正義運動活動家に対しても、ビーガンでありながらヒトという動物の間にある問題について鈍感なものに対しても、その核心的重要性を改めて認識させる良い道具になるのではないかと考えている。
~K-Singleton