野生動物の苦しみに関する極めて不都合な真実, The Vegan Strategistより
野生動物の苦しみに関する極めて不都合な真実
The Vegan StrategistよりThe extremely inconvenient truth of wild animal suffering JUNE 1, 2016 ~ TOBIAS LEENAERT
http://veganstrategist.org/2016/06/01/the-extremely-inconvenient-truth-of-wild-animal-suffering/
それほど前の話ではない。南アフリカのある場所で、若いシマウマが泥沼にハマっている。 彼女はパニックになっている。何も起こらなければ、彼女の泣き声とあがきは無駄になりすぐに窒息してしまうだろう。 しかし突如助けが入る:若いサイがシマウマを見て、その巨大な頭をその動物の下に入れ、泥沼から彼女をすくい上げる。一瞬、それはうまくいった救命行為のようも見える。しかし、サイはそのシマウマを突き刺して殺した牙の存在を忘れている。 安全な距離で別の存在が現場を見ている:一体のホモ・サピエンスである。 プロの自然写真家である彼は、そのドラマの一連の写真を撮影した。その男は干渉することができた。しかし後にジャーナリストに語ったように、彼は「自然は自然のままにする」ことが最善であると感じていた。
状況はこうだった。死に至る危険にさらされているシマウマは、彼女を救うことはできないサイに「救われた」(おそらく彼は遊ぶつもりだったか、単なる好奇心からだったのだろう)。一方、救うことができたヒトは傍観し運命にゆだねた。
救助が必要なヒトに出くわした時、少なくとも自分自身のリスクがほとんどあるいはまったくない場合は、我々は行動を起こすだろう。動物においては、この道徳的義務の感覚は持っていない。 特に野生動物は、我々が干渉すべきでない別の世界に属しているように思われている。だが、どうしてだろうか?
「自然」イコール「善」ではない。
未だに多くの人にとって、「自然であるもの」は、「良いもの」や「正しいもの」と同義だ。 自然界で起こることは起こらなければならない、でなければ起こるべきでない。あるいはそのような考えである。
それでも、ヒトの進化全体は、自然に対抗し、征服し、打ち勝ち、出し抜くというストーリーである。これはそれ自体問題ではない。それどころか、 我々が摂取するすべての薬は 「不自然」である。眼鏡や松葉杖や車や自転車もそうだ。あるいはこのテキストを読んでいる方法、つまりスクリーン。これらのどれ一つとして自然界には存在しない。 我々はまた、ほとんど常に我々―ホモサピエンス―のために、絶えず自然に干渉している。 我々は、道路、農地、公園、建造物を作るために自然を開拓してきた。それにより、我々は無数の動物個体たちを殺してきた。
多くの人々も、我々はヒトとして、我々が及ぼした自然の苦痛は解決しようと試みてもよい、あるいは試みるべきだということに同意するだろう。動物たちの住処をあまりに多くの部分に分離してしまったとき、彼らの通り道として橋やトンネルを作るなどの例がそれだ。 しかし、我々のせいではない苦しみはどうだろうか? 苦しみは苦しみであり、痛みは痛みである。この苦しみと痛みの原因は―ヒトであるかどうかにも関わらず―経験しているものにとってはまったく無関係(totally irrelevant)である。ウサギにとっては、何らかの病気によって苦しんでいようが、密猟者の罠にとらわれていようが(どちらの苦しみも同程度の強さであると仮定すれば)、無関係である。
若いシマウマを窒息から救うのは、些細で具体的な介入である。もしあなたがあの写真家だったら、(非常に自然な)共感の立場から、自分にできることをやっただろう。 しかし、今日、我々はすでに野生動物の集団へのより構造的な干渉を見てきた。 我々は一部の集団にワクチンを接種した(その理由はヒトの感染を避けるためであったが)。 いくつかの自然公園では、避妊実験を行っている(一部の動物を生まれないようにすることは、すでにそこにいるものたちを飢えによって苦しませるよりも人道的であるとの思いからである)。
のどかな自然という見方がなぜ間違いなのか
あなたは自然は幸福と平静に満たされたとてものどかなものであるという考えを持っているかもしれない。 時代を通じて、自然の本質についての我々の見解は、言ってみれば、前後に変化してきた。 今日、Tennysonが記述したように、「血に染まった歯とかぎ爪」という自然の見方は、残念ながら野生で起こっていることをかなりうまく説明しているようだ。 理由の一部はこうだ。
我々ヒトは数人しか子供を作らないが、その中に多くの投資をする。その結果、(少なくとも西洋諸国では、そして発展途上国でもますます)彼ら全員が生き残る。多くの、あるいはほとんどの動物は、異なる戦略を取っている:彼らは多くの子供を持つが、親の注意は彼らに多く投資されない。結果は同じようなものだ:一体あるいはわずか数体だけが生き残る(したがって、個体数は安定する)。この第2の戦略(伝統的に生態学者が「r-selection」と「K-selection」について語るもの)は、非常に若い間に信じられないほどの数の動物が死ぬことを意味している。例えば、ヨーロッパのウサギは生涯に360匹の子を作ることができるが、そのうちの15%しか一年目を生き延びることはない。一部の動物は、数百、数千、数十万の卵を産むことができるが、すべてが生を受けるわけではない。しかし、少ない子供しか持たない動物でも、一体以上の動物が生き残らないことも往々にしてある。たとえば、パンダは通常双生児を生むが、親が実際にはそれらのうちのどちらか一方にしか世話に投資をしないため、片方しか生存しないのが通常だ。
これらの動物の多く、あるいはほとんどは、痛みを伴わずに死んだり、速やかに死んだりすることはないだろう。 野生動物たちは、飢え、渇き、寒さ、干ばつだけでなく、病気やけがにも見舞われるが、いかなる医療処置の方法も持たない。 彼らは洪水や火災のような自然災害にも直面する。寄生虫もいるし、もちろん捕食動物だっている(視覚的な例があえて必要なら、下のビデオを参考してほしい)。
最後に、ここで話しているものの、実際の数を考慮に入れよう。人間の数は約70億だ。 我々が海から取る魚の数の概算は、1兆〜3兆匹である。世界に存在している動物の数をさらに粗く見積もると、10の19乗にものぼる可能性がある(詳細はこの記事を参照)。
要するに、自然の牧歌的な見方は間違いであり、苦しみの量は膨大であると思われる
この巨大な問題について我々が何かをすべきかどうかという疑問は物議をかもすものだ。 私が特に驚くのは、ビーガンやアニマルライツ支持者の間でさえ物議をかもすものであり、彼らは我々自身の責務や、我々が自身で及ぼしてきた苦しみに主眼を置いて考慮すべきだと考えているようだ。改めて言うが、苦しんでいる動物にとって、それが我々が引き起こしたものかどうかは関係ない。
確かに、介入の結果を予測することは、信じられないくらい、そして不可能なまでに複雑になりうる。確かに、介入は壊滅的な影響を及ぼす可能性がある。 しかし、この問題について考えている人々は、リスクと複雑さの両方を明確に認識している。 進行は漸近的でゆっくりしたものになるだろう。 しかし、起こっていることはすでに壊滅的であることを忘れないでほしい。 まだそれに納得していないなら、このビデオを観てほしい(事前警告:刺激的な映像!)
私にとっての主要な問題は、介入すべきかどうかではなく、どの程度そしてどのように介入するかということだ。 ほとんどの人は我々がすでに行っている介入―個々の動物の保護、予防接種、さらには避妊―には、少なくとも、これらの介入が非常に慎重に行われ、大きな害を及ぼさないという条件があれば、 同意するだろうと思う。しかし、もう少し進むべきではないだろうか?
二つの惑星
ベルリンにあるドイツのビーガン団体VEBUの事務所の壁には、額に入れた手紙が掛けられている。それはその後に脳腫瘍で亡くなった少女、Annikaからのものだ。私の友人であるVEBUのCEO Sebastian Joyに宛てられてる。その少女は手紙の中で、2つの惑星があればよかったと述べている:一つは人間のもの、もう一つは動物のものと。この考えはかわいらしく、あなたも一見して、これは良いアイデアだと同意するかもしれない。しかし、考えてみれば、あなたはこの動物の惑星が苦しみに満ちたものだということに気づくだろう。そしてもしかしたら、もしかしたらであるが、ホモサピエンスが自身の生存をうまくやり抜き、人間としてよりよく生きられるようになったら、本当の重要性を持ち、野生動物たちの一生をより良いものにしたり、彼らを苦しみから救うために何かできるようになるかもしれないと気付くだろう。私は、人によってはこの意見がいくぶんおかしなことに聞こえたり、傲慢にも聞こえるだろうことは自覚している。あるいは、ヒトや動物を助けるより簡単な方法があるのに、これは優先事項ではないと言うだろうことも。しかし、我々がこの先数万年、数十万年と存在するかもしれないことを考えてみてほしい。その時代にどんな道徳的、技術的発展が起こるか、誰が予期できよう?
その間、我々には何ができるだろうか? 一つとして、我々は、このトピックについてオープンな考え方を持つことから始められる。我々は自分たちの持つバイアスである種差別主義についてよく考えてみることができる。我々にとっての本当の優先事項はどこにあるのかを検討することができる。アニマルライツだろうか?苦しみの防止だろうか? 我々はこのアイデアをさらに広めることができる。我々は、既に起こっている思慮深い介入を支持することができる。そして、我々は将来助けになるかもしれない新しい技術の開発にオープンでいることができる。
動物たちにとって、この惑星は地獄であり、ヒトは彼らにとっての悪魔だと、Schopenhauerは書いている。 私は、我々は動物にとっての悪魔である必要はないと信じている。おそらく、我々は彼らにとっての天使になれるだろうと。 いつかきっと。 さらに学びたい場合は、talk about Wild Animal Sufferingを参照。 同じく research plans と(出資を必要としている) Foundational Research Institute. この記事は、ベルリンで開かれたSentience ConferenceでのOscar Hortaのスピーチに触発されたものである。
野生動物の苦しみについて関心のある方はTheRealArg - Wild Animal Suffering参照