デイヴィッド・ベネターという人物と思想
はじめに
デイヴィッド・ベネター(David Benatar)、1966年12月8日南アフリカ出身。 ケープタウン大学(南アフリカ)の哲学科長、教授であり、国際保健の専門家である父ソロモン・ベネター(Solomon Benatar)によって設立された同大学のBioethics Centreでディレクターも務める [1]。 無神論者でビーガン [2] [3]。 1992年、同大学で博士号取得。博士論文『A Justification For Rights』は、功利主義への批判と一種の権利論の擁護を行う内容となっている [4]。
著書『Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence(生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪)』で展開したアンチナタリズムの哲学で最もよく知られる。 ちなみに、原著ファイルはコチラからダウンロードできる。
彼は顔を明かしていないだけでなく、インタビューなどでも基本的にプライベートな質問は受け付けない(顔写真は判別できないほど粗いものが一枚出回っている)。 個人のプライベートを詮索したり、それをネタにするのは無益であるし、好きでなことではないが、彼の思想がうかがえる部分について分かることは記述する。
Contents
・アンチナタリズムについて・ビーガニズムについて
・その他
アンチナタリズムについて
アンチナタリズムという思想について
アンチナタリズム的見方を抱き始めたのは「とても若い頃から」であるそう [2]。 ベネターは、強い生物学的抵抗が存在するため、アンチナタリズムは広く受け入れられるとは考えていないという [2]。 『Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence(生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪)』[4]の前書きでも
私が弁護しようとしている見解に対する根深い抵抗を考えれば、この本やこの中での議論が子作りに影響を与えるというような望みは持っていない。 …私がこの本を書いたのは、私が述べることは、それが受け入れられるかどうかに関わらず、語られなければならないことである、という思いからである。
と記している。
子供について
子供はいるか、という質問に対し明確な回答はせず、「なぜその質問に意味があるのかわからない。 もし私に子供がいたとしても、私は偽善者になるが、それでも私の議論は正しいままだ」と答えるという [2]。
また、他人に妊娠を報告されたときは、「(子供ではなく)あなたにとって良かったですね」などとなるべく気分を害さないように受け答えるという [3]。
喜びについて
ベネターは生きることで感じられる喜びの存在や、それを追及することを否定しているわけではない。
苦しみの意義
苦しみにも意義があるという意見は否定する [5]。
「そうでしなければ苦しみは得るものがなく、耐えがたいものになってしまうから人々は意味を見出そうとするのだろう」という [2]。
より良い未来の創造について
絶滅しなくとも、より良い未来を創造できる可能性について尋ねられ,「それは決して実現しないだろう。 人々は教訓から学ぶことはない、個人で学ぶ者はいても、依然として狂気に囲まれたままでいる。 人類がどれだけ同じ過ちを繰り返してきたかわからないのか?」と答えている [2]。
人類の絶滅について
彼らの論理から自然に導かれる帰結として、最適は人口数は0であることになるが、人口減少のペースによって、絶滅に近い世代に大きな負担がかかるため、段階的な絶滅が好ましいだろうと述べている [5]。
他の生物の絶滅について
Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence(生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪)[5]のIntroductionでも
私の議論はヒトのみにではなく、他のすべての知覚を持つ存在にも適用される
と述べているように、生まれることが常に害であるということはヒトに限った話ではなく、現在の地球のような惑星より知覚を持つ生物が存在しない惑星の方が好ましいと考えている。
また、ヒトでない動物の苦しみの大半は自然界で生じているということも認めているが [5]、対象者に苦痛をもたらしうるという現実的な手法の問題として、少なくとも現時点では野生動物を積極的に不妊化することは難しいだろうと述べている [3]。
中絶について
存在を得ることは常に害であり、意識を得ると考えられる期間以前であれば、中絶すべきであるというpro-death viewを展開しているが、アンチナタリズムそれ自体は中絶に関して何か特定の見解にコミットするものではないし、中絶すべきという見解を採用しても、それは中絶を強制しても良い、ということとは違うと強調している。
具体的な期間の目安として、神経科学者である兄弟と共に研究結果をレビューした結果、胎児が意識を獲得する期間は妊娠28週から30週頃であると結論付けている [3][5]。
自殺や他殺について
彼はたびたび「生きる価値がない人生」というのは、「始める価値がない人生」と「続ける価値がない人生」の両義性があり、アンチナタリズムが主張する生は生きる価値がない、というのは前者の意味においてであるということを強調している。
存在していないものには利害関心はないが、すでに存在するものが存在をやめることには大きなコストが伴うため、アンチナタリズムは自殺や、同じ論理から他者の殺害を示唆するものではない。
しかし、それらを議論したうえで、人々を生かしているのが「生への不合理な愛」である可能性もあるため、一般に考えられているより多くの自殺が、理性的な判断とみなせるのではないかと主張している。
ただし、自殺によって遺されるものの苦痛も考慮しなければならない、と付け加えている [5]。
ベネターとプロモータリズムについては『ベネターのアンチナタリズムとプロモータリズム~基本的非対称性は自殺を示唆するのか』参照
ビーガニズムについて
前述の通り彼はビーガンである。
彼は2001年Environmental Valuesで『Why the Naïve Argument against Moral Vegetarianism Really is Naïve(倫理的ベジタリアニズムに対するナイーブな議論は、なぜ本当にナイーブなのか)』と題された記事で、肉食動物を引き合いに出して肉食を正当化しようとする、いわゆるナイーブな議論がなぜ誤りなのかを議論している [7]。
Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence(生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪)[5]では、アンチナタリズム的見方から、苦痛に満ちた生涯を遅らせるために生を強制することは許容不能であると主張している。
2014年に行われたTEDトークの南アフリカバージョンでも、動物性食品を献立から外すべきであると議論している。 そこでは、知性などを理由にヒトでない動物への暴力を正当化しようとする種差別主義的主張について、ヒトであっても高度な知性を持たないものがいるという事実を持ち出し、その根拠を否定する議論などを展開した。
また、一切の苦痛を与えず殺すことが可能であった場合についても、そうすべきでないということを示唆する見解を示した。 彼はそこで、死そのものが害であるかどうかを巡る議論は哲学的にも未だ明確な答えが出ていない問題であり、そのような場合我々は、慎重すぎるくらい慎重になる(err on the side of caution)べきであると主張している。 なぜなら、仮に死が害であるという判断が正しいものであった場合、命を奪ったことで他者に深刻な害をもたらしたことになるうえ、我々はヒトであれ他の動物であれを、健康に生きるために殺す必要はなく、慎重な態度をとるために障害になることはないからであるという [8]。
2015年にThe Species Radioに出演した際も、アンチナタリズム的見方に加え、漁業などについても言及し、他者に多大な苦痛を及ぼす行為として、動物の消費を批判している [3]。
その他
第二の性差別
著書『The Second Sexism: Discrimination Against Men and Boys』[9]において、第二の性差別として、男性への差別問題を取り上げている。
具体的には、社会的圧力、軍力としての利用、暴力の被害などの事例の、性差に基づく不当な違いをデータを添えて議論している。
しかし、彼は第一の性差別としての女性差別が、男性差別より深刻であるということを否定するわけではない。 ただ、それが男性差別を無視してよい理由にはならないということを議論している。 また、これらの差別はフェミニズムの広まり以前から存在しているものであると認識しており、フェミニズムに起因するものだとは考えていない。
道徳的立場
ベネターは功利主義者だ、という誤解は多い。しかし、彼が功利主義者でないことは彼の主張をよく読めば明らかだろう。
体罰
ベネターが体罰の推奨者であるというのもネットでよく見られるデマであるが、これは事実ではない。 ベネター自身もこれに記した論文 [9]で「私の主張した見解が誤解される危険性がある」と述べている。
彼はその論文で、体罰絶対反対派の主張は完全ではないことや、適切な制限とセーフガードがある状況においては、体罰が容認可能になる場合もあるということを示しているだけであり、決して体罰を自由に認められるものと主張しているわけでも、推奨すべきものであると主張しているわけでもない。
それでも特にひどい場合
ベネターはラディカルなネガティブ功利主義者であり(誤解1)、自身のアンチナタリズムの基底とした非対称性では苦痛は絶対悪であると主張しながら(誤解2)、体罰を推奨する(誤解3)矛盾した人物である。
などという、一つも的を射ていない批判も見られる。
彼が自身の主張を誤解される危険性があると考える理由の一つとして挙げているのが、やはり身体的に罰を与えられるという考えは心地良いものではないということだ。 彼自身も、場合によっては許容されることもありうると考えているとはいえ、教育者として一度もそのような手段に頼ったことはないと述べている。
ただし、例えば正当防衛によって他者を殺めてしまった場合、その行為が正当化されものであっても、後悔や居心地の悪さを感じることがあるように、ある行為が正当化されうるものでも、それに抵抗を感じることに矛盾があるわけでもないため、体罰に抵抗を感じることは、自身の理論的な見解と矛盾するわけでもないということも付け加えている。
References
[1] http://www.philosophy.uct.ac.za/philosophy/staff/benatar[2] https://www.newyorker.com/culture/persons-of-interest/the-case-for-not-being-born/amp
[3] https://youtu.be/677jSzNFMkA
[4] Benatar, D. A justification for rights. University of Cape Town, (1992).
[5] Benatar. D. Better Never To Have Been: The Harm Of Coming Into Existence. Oxford University Press, (2006).
[6] http://rvgn.org/2016/04/17/better-never-to-have-been-an-interview-with-david-benatar/
[7] Benatar, D. "Why the naïve argument against moral vegetarianism really is naïve." Environmental Values 10.1 (2001): 103-112.
[8] https://youtu.be/2kxsFWpw92E
[9] Benatar, D. Corporal punishment. Social Theory and Practice 24.2 (1998): 237-260.
(最終更新2018/12/10)