アンチナタリストはなぜ自殺しないのか

アンチナタリストはなぜ自殺しないのか


「存在に対してそんなに否定的なら、自殺すれば済むのではないか?」

これは、アンチナタリストが最も頻繁に受ける質問だろう。 ビーガンに対するPlants tho(でも植物は?)論法に対応する議論とも言えるかもしれない。

これに対する簡単な答えは「自殺するかどうかはその人次第であって、アンチナタリズムとは直接関係がない」というものだ。 あるいは、「生殖は生まれてくるものの同意を得ることができず、自分たちの利益を導く手段として他者を利用することは許容されない」という見方からアンチナタリズムを支持しているものからすれば、その立場を説明すれば回答としては十分だ。

しかし、アンチナタリズムを支持する別の理由「生まれなければ苦痛を経験せずに済むため」のまさにその一点のみに焦点を当てる批判者は、これでは納得しないだろう。

よってここでは、なぜアンチナタリストに自殺しないのかと問うことが的外れなのかを説明するが、その説明はもう一つの一般的な疑問「アンチナタリストの論理なら、殺しも正当化されるのでは?」が同様に的外れである理由も部分的に説明する。


生きる価値がない生

まずこの問いの基には、ある混同が存在している。それはベネター自身が議論しているように「生(life)には生きる価値がない」という言葉の持つ「生には続ける価値がない」と「生には始める価値がない」という二つの意味の混同である。

ベネター的なアンチナタリズムが主張しているのは、もちろん後者の「生には始める価値がない」ということである。そして、存在していないものには利害が存在せず、生まれないということで失うものは何もない一方で、すでに存在しているものには様々な利害関心があり、存在をやめるには大きなコストが伴う。そのため、わずかな(潜在的な)苦しみの存在であっても、新たな存在を生み出さないという判断を下すのに十分であるのに対し、存在をやめることを決断するには、一般により高い閾値が求められるのである。

よってベネターの言葉を引用すれば

もし人生が続けるに値しないのなら、なおさら始める価値はない。 しかし人生に続ける価値があるからといって、始める価値もあるということになったり、始めるに値しないからといって続ける価値もないということにはならない。

と結論付けられる。

もう一つ正しく理解されていないのが、博愛主義的なアンチナタリズムの根本にある動機である。 博愛主義的アンチナタリズムは、自分が生まれてきたことを嘆いているのではない。 そうではなく、他者に苦をもたらすべきでない、と言う極めて一般的な道徳原理に基づくものであり、では存在を与えることでもたらしうる快もあるではないか、という反論に対して示されるのが、快と苦の非対称性なのである。

したがって、他者に苦をもらたすべきでない、という主張に対して、自分が苦しいなら死ねばよい、と言うのは不適切(irrelevant)であり、快と苦の非対称性については、あるものが存在する場合と、存在を未だ得ていないという意味で存在しない場合を比較することによって生じる非対称性であるため、これもすでに存在しているものが生を続けるかどうかには直接無関係なのである。 これらの説明は、なぜアンチナタリストがすでに存在するものを殺すことを容認しないかという説明の一部にもなっている。(他者に苦をもらたすべきでない、という主張に対して、自分が苦しいなら死ねばよいと言うことがいかに的外れかを示すアナロジーの一つとしては『ロボット倫理:反種差別主義とアンチナタリズムの観点から』の議論を参照)


存在をやめるコスト

では、存在をやめるコストとはどんなものか?サラ・ペリー(Sarah Perry)はそれについて、著書 『Every Cradle Is a Grave: Rethinking the Ethics of Birth and Suicide』で具体的に議論している。

彼女は、「人生は常に恩恵であり、重荷では決してない。なぜなら、望むならいつでも無償処分の選択が可能でありながら、ほとんどその機会を利用するものはいないからだ」と述べる経済学者ブライアン・キャップラン(Bryan Caplan)に対し、自殺のコストについてこう記している:

真剣に自殺を試みることのコストは実際はとても高く、それを禁止することでこれらのコストは高まる。

米国では、自殺を試みる人は犯罪者ではないが、 これは、現代西洋社会で自殺が合法的であるという唯一の意味である。自殺が禁止されているという第一の意味は、自殺を試みることで意思に反して病院に収監される可能性があるということだ。もしある人が 自殺を試みたり、あるいは自殺したいという願望をのぞかせるだけで、自身を害する危険があると判断された場合、意思に反して精神病院に収監される恐れがあるのだ。

ひとたび収監されれば患者にそこを離れる自由はない。 彼が「逃亡」しないために、看守や警報機付きのドアや、他の測定器が備え付けられている。もし彼が自殺を試みたり、自殺をしたいという考えを抱いていることを疑われた場合、宝石や服を剥ぎ取られ、代わりに紙製の服を着ることを強制される(紙製の服は首を吊るリスクが少ないからだ)。自由とは曖昧な用語だが、ある人が、ある特定の行為を行ったり、あるいは真剣に議論するだけで、政府がその人を収監する権利を持っているということは、彼はその行動を起こす自由を持っていないと結論付けるのが自然だろう。

自殺を真剣に考えている人がより恐れを抱いているのは、収監よりも病院に対してである。 もし彼が自殺の試みで生き延びるか、あるいは死ぬ前に発見されてしまった場合、救急医療、看護師、医者、そしておそらく外科医たちが、彼の命を救うことによって彼のプランを台無しにしてしまうだろう。例えば高いところから飛び降りたり、頭を銃で撃ち抜いたりなど、この世から去るためにかなり致死的な方法を選んだものでさえ頻繁に命を絶つことに失敗する。その大部分は現代の医療のためにである。

死の淵から連れ戻されたものたちは、―元々生きる価値のなかったベースラインを下回るほど―人生のクオリティを著しく下げ、 衰弱させる傷害によって苦しむ。

その方針はその処置が成功する可能性を下げ、傷んだ状態で生かし続けられるというリスクは、自殺の試みのコストを上昇させる。

無償処分を提供すると考えられる高い建物でさえ確実に機能するわけではない。イスタンブールにある64mのボスフォラスの橋から飛び降りることでさえ、3%の確率で死ぬことに失敗する。動脈を切ったり、首を吊ったり自動車の排気で窒息するなどの方法はさらに失敗する確率が高い。より重要なことは、これらの方法は恐ろしいものだということである。これらの経験に耐える必要があるということは、その試みのコストを非常に高くする。高いところや、身体を破損することへの嫌悪というのは、進化によってインストールされており。たとえ本当に死ぬことを望んでいる人でさえ乗り越えることは困難である。

そして、自分が死ぬことで他者に及ぼす影響もこれに付け加えられる。

命を絶つことに成功したものは、その親類や友人から、これまでの仲間や彼のサポートを奪うことになる。誰もがいつか死ぬ―死がもたらす悲痛や喪失は不可避である。―しかし、自殺は死を早め、彼のコミュニティの目には、その責任があるように映る。そして、それは単に仲間やサポートを失うだけにとどまらない。親密な人の自殺は、たとえ喪失がどちらのケースも似たものであっても、その人が国を渡り、接触を断たれることよりもはるかに痛ましいものと受け取られる。

社会的コストは禁止されていることの産物である。自殺は、察知されることや、望まない蘇生を避けるために、ひっそりと隠れて行う必要がある。しかし、誰が彼の死体を発見するだろうか?自殺死体を見つけることは、親族や近しい友人にとって特にトラウマ的になる。しばしば別の選択となるのは、長い間見つけられないことで、親類たちが「行方不明」という不安と不確かさを耐え忍ぶ羽目になるリスクをとることだ。そして禁止されているがために、自殺を決意した人は、その意思を近しいものたちと落ち着いて話し合うことができない。彼はさようならさえも言うことは出来ない。病院に収監されてしまう可能性が高いからだ。遺されたものにとって自殺が悲痛なものであると感じられる部分的な理由は、惨めな人の幸運な脱出ではなく、悲劇的で避けることの出来た喪失であると解釈されることでもある。

つまり自殺には、失敗した際のリスク、成功したときに他者にもたらす苦痛、そして何より、我々のbiologyに組み込まれた内なる抵抗がもたらす究極の恐怖や不安という多大なコストが存在しているのである。


アンチナタリストとしての使命

純粋に、苦を回避するために存在を与えるべきでないという議論から、我々は直ちに存在をやめるべきであるという結論が導かれるか否かに関わらず、アンチナタリストは、自殺すべきでないと考える間接的な理由も存在する。

私の感覚が他のなんらかの有感生物の感覚より優れているということはない。敵は苦しみである。それが何の脳の中のものであれ、どれだけ離れたところの脳の中のものであれ関係ない

これはエフィリスト、インメンダム(Inmendam)ことゲイリー・モシャー(Gary Mosher)の言葉である。 すなわち、我々にとって道徳的に重要なのは苦しみであるが、それが誰の苦しみであるかは関係ない。自身の苦しみを取り除くために、取り除きうるより大きな苦しみに対処する機会を放棄することは必ずしも賢明な選択にはならない。

また、エフィリストは他の一部のアンチナタリストとは異なり、必ずしも人類の絶滅を優先しない。 なぜなら、人間社会よりはるかに規模の大きな他の生物世界の苦しみに対処できるのは人類だけであり、先に人類が滅んでしまったら、苦しみの最も大きな部分を放置することになってしまうからである。

これは、エフィリストではない他のアンチナタリストにも通ずる理念である。すなわち、より多くの苦しみを回避するためには、より広範にアンチナタリズムを理解させる必要があり、そのために我々は生きて活動しなければならないのである。

アンチナタリズムをあらゆる苦しみを減らし根絶するための一つの手段であると考えているものにとってはなおさらだろう。 多くのアンチナタリストはビーガンであり、他のあらゆる苦しみの問題に関心を持っている。

最後に強調しておかなければならないのは、仮にアンチナタリズムの議論から、我々は直ちに存在をやめるべきであるという結論が導かれたとしても、それは存在をやめないアンチナタリストが半分偽善者になるだけであり、アンチナタリズムのその他の議論に傷がつくわけではないということだ。 依然として生殖は悪であり、あなたが生殖をしたり、他者の生殖を支持する理由にはならない

より具体的にベネターの非対称性と自殺の関係について述べたものは『ベネターのアンチナタリズムとプロモータリズム~基本的非対称性は自殺を示唆するのか』でより詳しく議論してある。

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